日本全国城巡り🏯

おもしろき こともなき世を おもしろく

番外編⛩️久能山東照宮(2026.4/24観光名所54・静岡県)

      久能山東照宮                  徳川家康を祀る全国の「東照宮」の原点  

本日は曇/雨のなんとも微妙な天気           朝食は前日にドンキで購入したパン       本日も家康公史跡巡り              7時49分、JR静岡駅前                           しずてつジャストライン石田街道線のバスに乗車                                 8時23分発の東大谷バス停で乗り換え       これ逃すと11時になってしまう    なんて道幅だ👀❗                 国道150号沿いはめちゃくちゃ狭路💦              すれ違うのも大変だ                             地元住民の生活道路にもなっているためけっこう対向車いました、車で行くには困難ですね      10分ほどで久能山下バス停着       旧静岡市役所庁舎の塔と飛び交うヒメアマツバメのカラーマンホール      まだ朝なので静かです、奥に見えるは久能山                 久能山は推古天皇(592年〜628年)の頃に久能忠仁が建立した久能寺があったと伝わります           静岡茶の始祖といわれる聖一国師もここで修行したといわれ、多くの名僧を輩出したようです       久能山東照宮?が見えます                       別格官幣社東照宮             「別格官幣社」は明治時代から第二次世界大戦終結まで用いられた神社の社格で、国家に功績を挙げた忠臣や武将を祀るために創設されました                                           大正時代に建てられてます                                                    別格という言葉だけで超越した格式を感じます              表参道は1159段(いちいちご苦労さん)の石段                   海(駿河湾)に近く気温も涼しい(雨だけ心配)ので                        これは良い運動になりそうです      まず東照宮は、徳川幕府の初代将軍である徳川家康を神格化した「東照大権現」として祀る神社で                                            家康の遺命により全国に数多く創建され            天下泰平の象徴として現在も信仰を集めています                        家康公のことを東照公と言いますよね                                             久能梅林、時期は遅かったですね                  九十九折の石段も一段一段が低くこれはラク      途中振り返ると広がる駿河湾                   その先に見えるのは伊豆半島ですね〜      一の門         勘介井戸                                     ここで勘介の名が唐突に登場                                  勘介とはあの武田軍の軍師・山本勘助のことです                                     駿河はもともと今川氏の領地でしたが桶狭間合戦で当主・義元が討ち取られると1568年に信玄は甲相駿三国同盟(武田と北条と今川の軍事同盟)を破って駿河に進出します                        信玄は駿河の拠点として、この山頂にあった久能寺を別の場所(現在の鉄舟寺)へ移して本格的な城砦を築きました                勘介井戸は武田氏時代に勘助が掘ったといわれ            深さはおよそ33mの井戸の遺構が残っています                                 久能山城、ここに山城があったのですねぇ               武田氏の滅亡後は徳川氏の領有となります                                                                        山本勘助は謎多き人物なので勘介でも勘助でもいいでしょう、山城があったこと知らなかったな            そうこうしてるうちに       久能山東照宮博物館に到着            ここは絶対行くべき場所ですね       涼し過ぎて気持ち良いですが、曇天です                         博物館のチケット売場の前に家康のしかみ像の像                       三方ヶ原の戦いでの大敗の悔しさを忘れないため                       戒めに家康が自らを描かせたといわれるしかみ像ですが、実はこの話は後世の創作みたいですね                       チケットは博物館と社殿の共通券で1,200円          社殿のみだと700円です            館内は撮影NGです(参拝後に行きました)                         まぁそりゃNGだわという数々の国宝展示でした                                   徳川家歴代将軍ゆかりの日本刀など武具や甲冑にスペイン国王から送られた洋風時計など超貴重な所蔵品が展示されていました              この写真はレプリカですが、現物見て感動🥲                    1611年にスペイン国王フェリペ3世から家康へ贈られた日本に現存する最古の機械式洋時計です                                                            ボタンを押すと優しい音色が館内に鳴り響き                    このゼンマイ式の時計を家康は泰平の世が続くのとを夢見て何度も回して聞いたであろう…          と思いを馳せてみると、見学も至福のひとときとなりました              当然この具足もありました、金陀美具足です       関ヶ原合戦で着用した歯朶具足も必見でしたが                          金陀美具足は目を奪われます             家康が19歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦で着用したとされる金色の甲冑です                                    大河『どうする家康』での松潤が序盤から義元から授かって着用していたのが記憶に新しい                         目に焼き付けるとはこのことを言うくらいじっくり見学しました👀                                  清水エスパルスのマスコットキャラクターのパルちゃんも着用したパネルが設置されていて         エスパルスの試合日程と結果を教えてくれてます                      これ耳どうなってんのだろ、兜から突き出てる!            では御社殿へ       最初に1617年に建立された楼門            御社殿へと至る参道の入口にあたり朱塗りが特徴的で「勅額御門」とも呼ばれています               それは後水尾天皇の直筆による「東照大権現」の扁額が掲げられているからですね                楼門の表側、左右には神社を守護する随神像    弓と刀で武装した門番の役目ですね                          楼門から振り返る、この時間は参拝客少なかった                                                この間も1159段に含まれているのでしょうね       楼門の裏側には平和の象徴「獏(ばく)の彫刻」          家康38歳当時の実寸大の手形が残されています   38歳というと次男の秀忠誕生と同時に嫡男の信康と正室・築山殿の死去の1579年です      駿府ではなく浜松にいた頃ですね                    家康梅                            家康は梅を好み、その実を健康維持や薬用に活用したと伝えられます                                                 江戸時代、この実割梅から漬けた梅干を駿府城から東照宮に納める仕来たりがあったそうです       ここまでで1100段                          家康が大御所様時代の愛馬・神馬の木像          この後行く神廟(家康公のお墓)の丑寅側に神馬の墓があり、ここに埋葬されたと伝えられています        御社殿が見えてきました      五重塔跡                     3代将軍・徳川家光の命で1636年に建立された       高さ約30mの五重塔があった場所       明治時代の神仏分離令によって解体        礎石は残っていました                         反対側に鼓楼(創建当初は鐘楼)                           こちらも神仏分離令により鐘を太鼓に替えて改称                       取り壊されなかったのですね                       1618年造営の神楽殿                            かつて武家が奉納した絵馬が掲げられていたようです、ガラス窓がはめこまれ中には入れません            ガラス越しには、家康の肖像画や三つ葉葵の家紋、遺訓などが見えました         こんな重要文化財にプラモデル展示の違和感            ほほ〜、駿府城築城をはじめ浅間神社修繕や東照宮造営のため集められた職人がたくさん残ってプラモデル産業の礎となったのですね           静岡県はタミヤ、バンダイ、ハセガワ、アオシマなど有名なプラモデルメーカーが現在でもシェア9割を占め、その出荷額は全国1位とのこと                                                                                                                                     そういえば前日の駿府城登城の際に発見した金陀美具足のキット、この発想は「ものづくり県」といわれる静岡県らしいですよね               プラモデルの聖地といえるのがよくわかります       1617年創建の日枝神社                      御社殿の右隣に位置し、かつて本地堂として薬師如来像が安置されていましたが、明治時代の神仏分離の際に仏像を移して末社となりました      国宝御社殿                      圧倒的な威厳を感じます、日光東照宮より1年早く建てられた東照宮の元祖です                     主祭神である家康公のほか、豊臣秀吉公、織田信長公が相殿として祀られています             この扉の向こうには三英傑の合祀が…       戦国史ファンとしては興奮必至🤤                 この細密な彫刻や極彩色の模様など桃山時代の意匠が融合された御社殿は国宝にふさわしいですね          そしてこの逆さ葵               徳川家の「葵の御紋」が1つだけ上下逆さまになっており、これは「未完成のものはこれから発展していく」という意味が込められた魔除けの仕掛けとされています                         建物は完成と同時に崩壊が始まるといわれますからね、どうやら3、4つ?あるらしいが…                      結果2ヶ所しかわからなかった、目が疲れた😩            こんな感じでズラーッとたくさんあるので来られた方は探してみてください      墓所(神廟)へ      途中にこの添石垣(石垣を支える二重の石垣で現在は崩落の危険のため撤去されている)の説明板があったがどこだったのだろう         どこの石垣かはわからなかったですね       神廟(墓所)                         ここは神々の存在を感じる厳かな空間でした                  1616年4月17日、戦国乱世に終止符を打ち江戸幕府を開いた家康は駿府城でこの世を去りました                                         その直前、側近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を呼び寄せ、自身の埋葬について                                        「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納めて         一周忌が過ぎた後、下野国の日光山に小堂を建てて勧請せよ、京都・南禅寺に金地院を造営し、諸大名に拝ませ、八州の鎮守になろう」との遺言を残されました                    この遺言に従い、家康の遺体は久能山に埋葬され                             2代将軍・徳川秀忠の命によって久能山東照宮が建立されました                                         わずか1年7か月で完成しました             その翌年に遺骨の移動で日光へ改葬されました       日光東照宮は幼少期から何度か行ってますが                  ブログ開設してからはまだなのでいずれ行きます                 突き出てるのは石樋ですね            雨水を安全に排水するための工夫です       ざっと一周、神馬の墓もここにありました                          社殿や墓所(神廟)は西向きに建てられています     これは豊臣氏ら西国の大名への牽制、自身の故郷である三河を眺めるため、晩年を過ごした駿府城の鬼門(北東)を守護するためなど諸説あります          家康の生前の遺話にはこんなものも       御朱印まで売ってるのか、さすがだな                          現在のは2代目の大楠                                   財産とは金銭だけでなく、正直であることや          朝起きなどの「日々の正しい生き方」によって         得られるものだという教訓                                      早起きは三文の徳と言いますしね      駿府城より分木の家康お手植えのみかん🍊の木           御守り購入                 愛煙家として他人への配慮、マナーやルールを守ることを誓います      帰りは山下へ下山せず、このまま上へ       ロープウェイ🚡に乗って日本平に行きます         東照大権現(家康公)のラッピング自販機             久能山駅から日本平駅までは700円              約5分の道のりです、久能山から日本平へはハイキングコースが整備されてないため登山は無理そうですね             日本平へはからの後続のロープウェイ🚡     良い眺めでした           日本平側からロープウェイで久能山東照宮へ行く方のために東照宮の見どころなどの展示           手形またありました、こちらも38歳の頃の手形      身長159cm、戦国時代の平均身長か       これはリアルですね、たまに190cm越えの戦国武将(斎藤義龍や藤堂高虎など)がいるのはちょっと信じがたいですけども      日本平ロープウェイ駅    日本平夢テラス                 予定ではここから見える富士山が絶景〜なはずでしたが          あかんでしたね、降りはしてないけど曇天だもの           本来はこの通り、残念でした            時間的に食事処がランチタイム過ぎてて営業してなく、みかん🍊ソフトクリーム🍦だけ           バスは1時間に1本、平日はね      沼津魚がし丼 アスティ静岡店                    静岡駅に戻り海鮮丼(近海丼1,480円)で遅い昼飯      ここ食券出して、席着いてスマホ開いたら呼ばれるという異常な速さで料理提供されます       駅近の鯛焼屋でさくらあんたいやき(220円)      ホテル帰ってから秒で食べる              夜はラーメン矢吹                      塩つけ麺(1,050円)とチャーシュー小丼(400円)    ラーメンはラーメン屋でバイトしてたし好きなので口は出しますが美味かったですね                              あくまで三英傑の中では少し人気が劣りがちですが「待つ」姿勢と忍耐強さで最後は生き残って武家諸法度などを制定し、自身の死後に再び                戦国乱世に戻さないよう260年続く江戸幕府の平和なシステムを完成させた家康                                                   遺訓とされる「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し 急ぐべからず」                         焦らず地道に耐えることの重要性が説かれ         現代でも学ぶ教訓がたくさんあります          石の上にも三年、いや何十年我慢、耐えたか                激動の75年、家康公ありがとうございました🙇

久能山東照宮               ◯交通アクセス                 ①日本平から久能山東照宮              JR静岡駅より、しずてつジャストライン日本平線にて終点「日本平ロープウェイバス停」に下車                        山頂より日本平ロープウェイで5分

②久能山下から久能山東照宮               JR静岡駅より、しずてつジャストライン石田街道線にて終点「東大谷バス停」下車               東大谷バス停で「久能山下行き」のバスに乗り換え、終点「久能山下バス停」で下車        山下バス停から徒歩、石段1,159段を登る        

 

第72登城🏯駿府城(2026.4/23日本名城41・静岡県)

拝啓                        2026・晩春の候、過ぎゆく春を惜しむ季節となりましたが皆様いかがお過ごしでしょうか✌️                   駿府城                         富士を望む地に構えられた徳川家康の隠居城

4/23、曇天模様の東京駅                             江戸城、江戸時代といえば265年もの泰平の世を築いた開府者・徳川家康                                                                               1590年の小田原征伐後、関東入封から江戸城を大拡張して後の徳川幕府の政治拠点へと変簿させました                                                    しかし、家康は江戸では亡くなっておりません           都民としては残念の声ではありますが将軍職を秀忠に譲り、第一線を退いた家康は隠居しました             【出陣】最近、ついに将星・家達登場                                          これから向かう先は家康の故地でもあり                                    生涯の拠点として最も長く過ごし、大御所として人生の最期を迎えた駿府への城巡りです               JR高速バス、八重洲南口発                           春の城巡りは最後となりそう                今回、雨男☔全開の旅(3泊4日)でした😢      晴れたのは最終日だけだった😵‍💫😵‍💫😵‍💫                                       車窓から見えた雨雲に覆われた富士山🗻              静岡駅(静岡市)へ到着、3時間は短く感じます               今回は同行者と共に城巡りです              まずはスタンプ設置の観光案内所へ            御宿場印までもあるのかーっ😮                   めっちゃ都会、しかしまぁ本当に天気が悪い          竹千代(後の家康)と今川義元像         駅北口広場にさっそくいました              まず竹千代像の斜め後方に座すは甲冑姿の義元像                                                        どうやらこちらは竹千代像の後に作られたようで新しかったですね                      しかし鳩糞が集中的に義元像だけにかかってて        非常に残念でした(周辺、鳩だらけでした)                      なので後日に撮影、義元像は桶狭間古戦場跡で     見ましたが、こちらのほうが風格があって威風堂々としていますね      今川氏は駿河・遠江・三河を領有した大大名です                                      いまや徳川家康の街として知られる静岡ですが      その前は今川義元が支配していました                           駿河には駿府城の前身にあたる今川氏館があり         中世の守護館として京の文化を取り入れた「今川文化」が花開くなど、東海地方の政治・文化の中心として大いに繁栄しました                                           そして家康です                                    幼名は竹千代といい、1543年に岡崎城で生誕                父は三河国(現在の愛知県東部)の大名・松平広忠                               母は正室の於大の方です、家康と両親が同じ兄弟はなく竹千代は正統な後継者でした                   最初は松平性だったのは周知ですよね                                                                  この岡崎城がある三河国は東に今川義元               西に織田信秀という強大な大名に挟まれた緊迫した地域、織田家も尾張の一小大名でしたが。                                   その狭間で広忠は今川氏を頼ることを選択                          幼少期に母と生き別れになり、わずか6歳で今川氏の人質として駿府へ送られることになり                その道中になんと織田氏によって竹千代は強奪されてしまい、広忠は織田氏から「今川ではなくこちらにつけ」と迫られますがこれを拒否               竹千代は織田氏の人質として過ごし、その間に広忠は織田氏が送り込ませた家臣の埋伏(スパイ)により暗殺されてしまいます                       大河『麒麟がくる』では信長(演:染谷将太)自らが広忠の首を取り父・信秀(演:高橋克典)に首を献上する狂気の片鱗を見せていました                       あれは信秀が覗いて頭部だけが少し見えてましたがなかなかの演出でゾッとしました                                                                                                       この像の表情でわかる通り、竹千代に笑みはなくこの歳で弱肉強食の戦国時代で弱小大名家の宿命と戦略の「道具」としての扱いを受けた苦しみをまざまざと表しています             《2024.12月訪問・笠覆寺》人質交換の地                          結果的に織田氏に渡った岡崎城を攻略した今川義元は織田信秀の嫡男で城主の織田信広を捕縛して織田氏との人質交換によって竹千代は今川氏の元に送られるのです                                   織田氏人質時代は大河『どうする家康』でも          9歳上の信長に相撲でぶん投げられまくって               その後も信長=恐怖の対象として抱いていました                                                            今川の後ろ盾を得ても三河国は今川氏に組み込まれた状態であり、松平氏は前途多難だったのです                                                                                         徳川家康公像(壮年期)             竹千代像から少し歩くと見つかります                     幼年期から一気に時代は進んで壮年期へ     桶狭間の戦い後、戦国大名として独立した家康   これぞ自立の像です                                                                 信長と同盟して天下布武を支援、本能寺で信長が横死して遺志を継いだ豊臣秀吉の天下統一事業をするまでに数々の修羅場を経て五か国領有               (三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)の超がつくほどの有力大名として君臨しました                 この像は1582年〜1590年の約8年間の壮年期で          この頃に駿府城を築城しています                                             この時点で貫禄が完成されつつありますね                    この後に秀吉の命で関東移封となり、五か国は召し上げられて湿地帯が広がる寒村だった江戸に移るわけです                                                石高だけ見れば150万石→240万石と大幅増大         となり家康は有力家臣たちを配置して関東の整備に大いに着手していきます                四天王も過去、群馬や千葉の城巡りでちらほら見てきました                さっそく雨が降ってきましたよ         鳩も雨宿りして円型の大屋根に集まってました    私も避難して地下街に逃げ込むと至る所でアニメ『ちびまる子ちゃん』のイラストポスターが❗                            駿府城と写っているのはまる子のお姉ちゃん           静岡市のシティプロモーションによるイラストで、作者はたしか清水市じゃない?と思いましたが現在、清水市はなく20年ほど前に静岡市清水区になって統合していたことを今頃知りました                             静岡にはお茶とみかんとサッカーとちびまる子ちゃんと駿府城がある❗そして永遠の論争である富士山です      ちびまる子ちゃんカラーマンホール        まるちゃん可愛いから静岡に一票入れます        徳川家康顕彰四百年記念のカラーマンホール          大御所家康公/駿府城入城/四百年祭のカラーマンホール、雨が悔やまれます      静岡の由来                                     江戸時代では単に府中と言えば駿府を指していました、府中の名前は国府の中心を意味します           明治維新後にこの府中の呼び名が「不忠」ともいえるため、縁起が悪いということで                                       駿府城北西にある賤機山(しずはたやま)にちなみ賤ヶ丘(しずがおか)となり、これもまた字が         賤しい(いやしい)のため敬遠されて「静岡」に改称された歴史があります                                           新政府に恭順の意を示すためにいろいろ考えなくてはならない時代背景が想像されますね                  ちなみに東京都の府中市は奈良・平安時代に武蔵国の国府が置かれたことに由来され、江戸時代には府中宿(宿場町)として栄えるなど古代からずーっと府中と呼ばれていたようです                    明治天皇やっぱ静岡にも行幸してますね         さて、そろそろ駿府城には大手御門跡から登城           水堀の三ノ丸堀を渡ります        敵の侵入を防ぐためクランクとなっているのが   現代でも残っています、城に入城する際の攻め手になって見るゾクゾク感がたまらない👍                      いつものルーティン      そして直進すると到着です、駿府城                出陣登録ポチッとなぁ❗                         制圧戦イベ、あまりやってないけど現地訪問で     有利になるようですね                      試しにやってみたらかなり小判もらえた🤤             駿府城の目の前には静岡市歴史博物館があります                         ここは25日(明後日)から特別展示があるようなので最終日の26日に行きました       ベンチの両隣に弥次喜多像           駿河出身の十返舎一九の作品『東海道中膝栗毛』                     の主人公・弥次郎兵衛と喜多八というお笑いコンビがコミカルな体験をしながら旅をするような物語でそのキャラクターが像にも表現されています                                              ここからのアングル、良い感じです(奥に巽櫓)      しかしこのアングルは解せぬ                    巽櫓の奥に建つは静岡県庁別館、後で行きます                               駿府城は家康の関東入封後、1585年頃から         本格的な築城を開始して1589年に天守や本丸が                              完成し、秀吉への備えや拠点として機能しました                                              二ノ丸堀に架かった東御門橋を渡ると東御門です                             1996年に復元、二ノ丸東に位置しており      城の主要な出入口で様式は高麗門です        高麗門をくぐると枡形になっていて右に櫓門                           巽櫓内部から撮影した高麗門と櫓門              敵の侵入を四方八方から蜂の巣にして食い止める防御構造となってます、総じて枡形門と言います           平城らしくオーソドックスな輪郭式の城郭です            まずは散策から。駿府城は現在、城趾として       整備され公園となっています          城下町の石碑                  城下町の絵図を屏風型に作った珍しい石碑                       本丸堀                               駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます、幅約23~30mで深さは江戸時代には約5mありました                                   明治時代に陸軍駐屯地として設置されたことで     内堀は埋め立てられましたが、近年の発掘調査によって再び姿を現した貴重な遺構です            御玄関前御門跡               二ノ丸から本丸への出入口は3ヶ所あり正面玄関のこの御門跡は一番重要でした               東御門と同じく木橋を渡り高麗門をくぐると枡形になってて東に折れて本丸へ入るようですが復元されてないため想像で周囲を見渡しました         振り返ると食堂です、雨宿りもかねて休憩       静岡おでん🍢は初耳でした                       特徴はスープが「黒い」こと、青のりと「だし粉」をかけること、すべての具材が串に刺さっていることらしいです              でもおでんはやっぱりスープがあってこそだと思うんですよね、具材はたしかに美味かった          昭和の空間のような駄菓子コーナーも必見      駿府城址碑                   石垣のモデル                     江戸時代に用いられた石垣の積み方で、上が切り込み接ぎで下が打ち込み接ぎ               言わずもがな切り込み接ぎのほうが高度な技術         駿府城は大修築された際、築城は天下普請として                         全国の大名が動員され、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました                      どなたかの大名の刻印のサインのようなものが残る石もありました               だんご三兄弟のようなサイン🍡       まずは二ノ丸の南西に位置する坤櫓から見学    2014年に伝統的な木造工法により復元された比較的新しい櫓です(入館料100円)                  家康の年表や映像資料など                  このへんの本物は久能山東照宮にあるんですよね           陣羽織や刀、火縄銃があり撮影可能です            『豊臣兄弟❗』で家康を演じてる松下洸平さんのサイン、役作りにより意識するために来られたのかな(明智光秀役の要潤さんもある)           規模は小さいですが時間あればって施設でした         天守台跡の発掘調査現場                       発掘調査により駿府城は江戸城や大坂城をも凌ぐ日本最大の天守台だったと立証されています             1590年、家康の後を受けて駿河国に入封してきた豊臣家臣の中村一氏                                                             天守台ですが戦国時代末期、秀吉の命で築かれた天正期の天守台と江戸時代の慶長期の天守台という「2つの時代の天守台」が重なって発見されました                                       1607年、慶長期の大改修の際には家康が全国の諸大名に動員をかける「天下普請」により         日本最大級の天守や石垣を持つ大城郭として大改築されました                  「慶長期天守台」は、西辺約68メートル×北辺約61メートルあり、日本最大の大きさを誇ります                                また金箔で装飾された瓦が約330点も出土され           豪華絢爛な天守が存在したことを証明しています                    五重天守であったことは間違いないですね                                                           ここはちゃんと時間かけて見るべきでした           夜にも行きましたが真っ暗でした                      駿府城(前身の今川氏館含む)の城主は              今川氏(家康人質時代)→徳川氏→豊臣氏ときて   関ヶ原合戦後は徳川氏の城となりました              内藤信成                     松平広忠の庶子で徳川家康の異母弟ともいわれる内藤信成が4万石の大名として入城                駿府藩が立藩されました                                                                本丸跡                                      ここに晩年の家康公像がいます                             内藤は近江長浜に移封して家康が戻ってきました                           静岡駅で見た幼少(人質)期、壮年期、そしてこの                        晩年期の家康、1605年に将軍職を秀忠に譲り                          隠居して大御所様(将軍の父の敬称)と呼ばれ                         采配を持っていた壮年期像から肩の荷がおりたように、趣味の鷹狩りを嗜んでる様子が像から伺えますね                                                      まだ大坂城の豊臣氏は健在でしたが関ヶ原合戦前に比べて首尾よく進んでいる秀忠政権を評価していたのでしょう             最後の晩年期は65歳から亡くなる75歳までの10年間を駿府城で過ごしました                      家康だと適役は津川雅彦さんなのでしょうね                    大河含め5回も家康を演じていますがどの作品もまだ見たことないです💦           YouTubeやショート動画で見る限り、貫禄と威厳と腹の底が読めない「たぬき親父」ぷりは      戦国のゴッドファーザーの評価が高いです     個人的にはやはり『真田丸』の内野聖陽ですね     他は若い頃の家康に重きを置いた配役でみんな俳優が若いです                        家康の死因は鯛の天ぷら🍤にあたって食中毒で亡くなったと広く認知されていますが胃がんという説が有力視されているようですね              すぐ近くには家康手植の蜜柑の木があります          紅葉山庭園へ              家康が晩年に過ごした駿府城の歴史的背景を活かして造られた本格的な池泉回遊式庭園              大名庭園風に作庭された庭園なので風情豊かな景観を楽しめます……が大雨さえなければ心地よいお散歩となったでしょうね🙁              歩兵第三十四聯隊址の石碑                       明治時代に帝国陸軍の歩兵第34連隊が駐屯していた駿府城跡、過去の城巡りでも城や城下町は軍都として転用された歴史も現代に伝えていますね            本丸堀と二ノ丸堀をつなぐ二ノ丸水路      東御門チケット売り場              だいたい見て回ってきたのでチケット売場へ           東御門から渡櫓を通り巽櫓へ入場します            駿府城の縄張り模型が早々に展示                             歴代城主、家康死後は頼宣だったのですね      家康(61歳の頃)の十男で紀伊和歌山藩初代藩主                       徳川御三家のひとつ、紀州徳川家の祖です             家康からはかなり薫陶を受けたようです       そして徳川忠長、秀忠の三男で家光の実弟                                                駿河大納言と呼ばれました                                                母は江姫(浅井長政と市の子で三姉妹の三女)です                                  忠長は過去に甲府城巡りで紹介していますが徳川一門で暴君、狂人といえば必ず名があがります                                                   漫画『シグルイ』でもその狂人ぶりは描かれていますが忠長の残虐性、蛮行、素行不良のエピソードは枚挙にいとまがないほど                                                                         江戸時代では長幼の序の倣いで長子相続のため嫡男である兄の家光が嗣ぎますが納得せず        傍若無人を通り越すほどの悪行を繰り返しました                                           異母弟の保科正之は家光から超特別扱いで幕府を支える重鎮になったのに秀忠も家光も寛大な対応してましたが、ここまでの狂気は負えなかった                                    ついに堪忍袋の緒が切れてイエローカード累積しまくってアウト、切腹となりました      これにより駿府藩は廃藩して天領(幕府直轄領)となります       戦国ブロガーの家忠日記も紹介されていました              松平家忠は家康の一門で深溝松平家の第4代当主                                             家忠を知ったきっかけこそ家忠日記で内容を紹介してるネット記事を見て現代でいうブロガーが500年近く前にいたことを知り好きになりました                                                                     この家忠日記は1577年から1594年までの17年間を文章と絵を織り交ぜた自筆日記で日常に起きたことや三英傑のことも記載されている戦国時代の貴重な一次史料となっています                             本日の料理や動物の絵、さらに現存する日本最古の将棋の局面図という棋譜も綴っていてまさにブログの大先輩なのです                                           しかし時代は許さず、関ヶ原前哨戦の伏見城の奮戦で死んでしまいます                        家忠を知ってから信長の野望プレイのたびに家忠をオリジナル武将作成してるんですよね                           この展示資料をじっくり見学したら1日潰せるほど駿河城の歴史が詳しく紹介されていました                          250年もの間は幕府領だった駿府藩でしたが         幕末…ついに1868年、戊辰戦争が勃発します                                                                                                              江戸城は勝海舟の交渉力により無血開城して    江戸での戦火を回避したのと並行して駿府も開城                                                                      駿府は市街地での戦闘や砲撃を免れました                                  徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜は将軍職を辞して朝敵を除外され、江戸や故郷の水戸で謹慎生活を送ります                        その間も戊辰戦争は東北・北海道にまで発展して旧幕府軍は戦っているのが皮肉な話です                                          戦争が終結すると慶喜は駿府改め静岡に移ります                                                                                        徳川慶喜公屋敷跡(浮月楼)                                              慶喜が20年余を過ごした屋敷跡は現在、由緒ある浮月楼という料亭となっています                                           徳川幕府を終焉させた慶喜でしたが政治から一切身を引いて写真、油絵、狩猟、自転車などの多彩な趣味に没頭して地元の人々からは「ケイキさん」と呼ばれ、悠々自適で平穏な隠居生活を送ったようです                                                                   徳川家達(左の子供、右は慶喜)                            慶喜の後の徳川宗家の第16代当主・家達      本来は慶喜より先の将軍有力候補でしたがまだ              幼かったために見送られた当主でした           新政府下での徳川家の存続と名誉を守り抜き         貴族院議長として30年にわたり日本の立憲政治の発展に貢献した政治家となって徳川の意地を感じました、固辞しましたが総理大臣への就任を要請されるなどやはり有能な方だったのですね                                                                                               それまで約700万石と全国の約3割を占めていた                                                             徳川幕府の直轄領および旗本領はすべて新政府に没収され、徳川宗家は家名存続を許されますが                                   駿河・遠江・三河一部の70万石の駿府藩(後の静岡藩)へと大幅な減封のうえ移封されました        明治に入り1869年には駿府城は廃城となります                                                  大減封というのは過去に米沢城巡りで上杉氏の苦悩などを見てきましたが、旧幕府にもたくさんの職を失った幕臣がいたため食い扶持が死活問題で多くの者が自活を余儀なくされ、一部は開墾方として北海道の開拓などへ向かっているのですよね                                  生活を支えるため、開墾や産業の振興(茶やみかんの栽培、製茶業など)が積極的に行われた歴史があります                                                                                静岡は江戸時代だけでなく、明治維新以降も徳川宗家の領地(静岡藩)として存続した特別な歴史を持っているんですね       大日本帝國陸軍・陸軍歩兵第34連隊(静岡連隊)                               先ほど石碑を紹介しましたが廃城となった駿府城の敷地には陸軍歩兵第34連隊が置かれ、城の堀は埋め立てられるなど大きく姿を変えました                   兵営や関連施設が建設され、駿府城の大部分が軍用地となり、1897年に創設されてから1945年の太平洋戦争終結によって解散するまで軍都として機能しました       やすらぎの塔                    太平洋戦争中の空襲などで亡くなった若い学徒を追悼する慰霊碑で2001年の地震で破損して           台座のみでしたが今年3月に像が再建されました                                                                  天守台発掘調査現場全景模型                 これほどまでの規模の天守を再建するのは         おそらく私が生きている間には難しいかもしれないな、何百億円かかるのだろうか……       天守台の構造を間近で見学できる野外展示施設(ガイダンス施設併設)が、2027年春のオープンを目指して整備が進められているようなので         いつか再訪しよう                   売店、御城印はこちらにあります       2階に上がると記念撮影スポット、炭治郎いますが鬼滅の刃とお城のコラボでもしているのかな                       竹千代(家康の幼名)手習いの間          今川家の人質時代に勉学や武芸に励んだとされる部屋を復元                  これ実物は臨済寺の中にあるのですよね        太原雪斎                    臨済宗の住職で義元の軍師・政治家として活躍            今川氏の頭脳といってもいいでしょうね                        1549年の8歳から19歳まで11年間、今川義元の人質として駿府に住んでいた家康は雪斎から学問を学びました                                                雪斎は家康の才能を高く評価し、ただの人質ではなく今川家を支える優秀な武将として英才教育を施しました       狭い……しかし集中して勉強できる環境だと思う                                                  臨済寺には今回行けなかったなぁ       駿府城を後にして静岡県庁別館へ                            静岡県庁 別館21階 富士山展望ロビー       この日はなんにも見えなかったので26日に行った際の写真、富士山見れました                   ↑こちらは博物館の3階から            地上90mの展望ロビーから 駿府城丸見えです   右に東御門、左奥が天守台、中央に見える緑色は本丸堀か              しかし富士山は何度見てもいいねぇ。🗻      最後に……                    快晴の26日に行った静岡市歴史博物館      特別展は没後500年を記念して今川氏親でした         徳川徳川と言いながらも今川も忘れない静岡市       素晴らしいですね       ここ、1階館内の中に発掘された戦国時代末期の道と石垣がそのまま露出展示しているんですよね                      これは驚いた、遺構ありきで建てられた博物館       博物館内は通常展示、特別展示ともに撮影NG   2階の通常展示は家康を軸に駿府城、城下町から幕末の静岡藩、慶喜や家達の展示もありました                        3階の特別展示は今川氏親メイン             氏親は今川義元の父、そして北条早雲の姉の子       戦国時代は好きですが信長より14歳年上の義元          その義元の父の代となると戦国黎明期となります                                     全くわからない……しかし氏親の紹介に            「今川氏と駿府の戦国時代は、この武将から始まった」とあるだけに期待値は高鳴ります                     氏親の代で叔父の早雲の助力を得て駿河から       遠江や東三河など勢力を拡大してるのですよね            また、分国法「今川仮名目録」の制定して領内の統治ルールを明確にし、大名としての権力を確立                     後に武田信玄がつくった「甲州法度之次第」に深い影響を与えるなど先進的な領国支配の仕組みを作りました                      《2025.9月・韮山城登城》                          叔父と甥という早雲と氏親の血縁関係は強固な協力体制で勢力を拡大、早雲は堀越公方を滅ぼして伊豆を手に入れ関東に進出して北条氏の礎を築きました、この頃は無敵だったでしょうね    今川氏は氏親の次の代で、北条氏は早雲から数えて5代で大名としてのお家が潰えるとは2人とも予想しなかっただろう                      260年続いた徳川幕府の終焉をみても形ある物はいつか壊れる、諸行無常ですね       さて、この日は静岡おでんしか食べてないので    夜はガッツリで新静岡駅の大型商業施設・セノバへ            静岡は昨年9月以来ですがやっぱり静岡来たら一度は食べたいさわやかハンバーグ                駅近のビジホだったので整理券取ってホテルでゆっくりして時間に合わせて来店           このハンバーグは本当に美味しい👍      駿河屋で水曜どうでしょうのTシャツを購入     今年も原付でどっか行きますかな       ドンキは4日連続で行きました、ドンキ最高です                    夜の駿府城               清水御門跡、二ノ丸へ入る西側出入口              高麗門があったようですが復元されてないので     東御門と比べ西側はちと寂しい感じ       西門橋を渡り、時計回りで外周を半周して帰宿                              【出陣】駿府城訪問で城武将の獲得は家康ではなく義元、家康は江戸城です            いやいや駿府は家康だろ!と思う人はたくさんいると思いますが幕府を開いた江戸城こそ家康ということで義元に花を持たせましょー💨             今川氏の特集もけっこうあって本当に学べました                        駿府城の前身の今川氏館の御城印も購入             まだまだ真っ白だよスタンプ帳         道は果てしなく長い、あせらずゆっくりと         天下統一(200名城登城)するその日を目指そう   忍耐っすよね大御所様😗                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           人質として今川氏のもとで育った8~19歳                                     天下を巡る争いの中にいた45~49歳                 天下泰平の世を築いた65~75歳の計3期にわたって過ごした駿府城                           三河国・岡崎城(愛知県)の出生して江戸城(東京都)で江戸幕府を開き、75年の人生のうち実に3分の1を駿府で暮らした家達            よほどこの地を気に入っていたのでしょう      家康ゆかりの城は東海道ラインに点在しているので楽しみです     

駿府城                      ◯スタンプ設置場所                      静岡市総合観光案内所              駿府城(東御門・巽櫓・坤櫓)の各施設の入場券売窓口                     ◯交通アクセス                  JR東海道本線「静岡駅」から徒歩約15分         静岡鉄道静岡清水線「新静岡駅」から徒歩約12分                                                                                                                                                                                                                               

    

第71登城🏯上田城(2026.4/9日本名城27・長野県)

世の中は三日見ぬ間の桜かな🌸                              桜って開花から散るまでの期間が約1〜2週間と短いですよね、3日も見ない間に咲いたり散ったりして世の中の移り変わりの早さは桜のようだと表現した江戸時代の俳人・大島蓼太の句です                      

私もこのタイミングだ!と思って行った奈良城巡りではまだ蕾から二分咲きでした                      これでは春の城巡りを終われないってことで                                           攻めます、行く先は長野県

                      上田城(別名:尼ヶ淵城)                    天然の要害・尼ヶ淵に築かれ、地の利を活かしたゲリラ戦で徳川軍を2度退けた「難攻不落」の真田の堅城   

      桜がまだ見たいんじゃいけフクロウさん❗              軽〜く行ける距離で叶えてくださいまし                  池袋発でサクッと行けるのなら        長野県は上田市、3時間ちょっとで上田駅着           もう六文銭の駅舎の時点でお察しの真田駅ですね                     翌日の夕方に予定があるため1泊2日の上田城巡りのみで本日は動きます       上田駅はJR(北陸新幹線)以外にも                  しなの鉄道(しなの鉄道線)や上田電鉄(別所線)      の3路線が乗り入れてます            駅周辺は平日だからか想像していたより静か                         しかし上田=真田といえるほど定着してました                                             六文銭は真田家の家紋であり旗印でもあります      駅前は獅子像、大水車がありゆったりとした雰囲気で時間が止まっているようです       真田幸村騎馬像                 そして幸村像もありました、初陣の像らしいです            一般的に幸村の初陣は24歳、1590年の小田原征伐(松井田城攻略)が初陣とされています                        漫画『花の慶次』の真田幸村                                   次男坊ゆえの人質生活、すでに奥州に覇を唱えていた同年代の伊達政宗への嫉妬心にくすぶってた幸村は慶次に後押しされて見事初陣を飾りました                    大河『真田丸』の真田幸村                     一方で1585年の第一次上田合戦に参戦したという説もあり『真田丸』ではこの説を取り入れ              上杉の人質時代に許しを得て上田城に馳せ参じたのが幸村の初陣(19歳)ともいわれています                 徳川軍の上田城攻めに対し、真田家当主の真田昌幸は籠城策、備えのため家臣を配置するも          1つピースが足りないところで幸村が一時帰参      昌幸は「勝った!」と確信しました                          幸村という名前は広く知れ渡っていますが           生前に自身を幸村と名乗ったことはなく死後           後世(江戸時代中期)になって軍記物で使われ定着していきました、実際には信繁ですね                        『真田丸』でも信繁で物語が進んだ関ヶ原合戦後                                              兄の信幸が徳川に忠誠を尽くすために父の昌幸から継いだ「幸」の字を捨てて信之に改名             信繁はその「幸」の名を拾うという演出で大河後半でようやく「幸村」になりました                                                     たしか「村」はくじ引きで決めたんでしたっけ               とにかく面白かった『真田丸』        大塔物語                     真田氏の名が見える最古の文献でここに実田、真田の名が出てきます                           戦国時代、最初に真田三代の系図を紹介すると                                                まずは真田幸隆(幸綱ともいいます)                       真田氏は元々、信濃の小さな国衆でした                      幸隆は北信濃の大名・村上義清に領地を追われ        甲斐の武田家の家臣となります                              ここで幸隆は智謀と調略をもって村上戦に貢献              信玄に重用され「攻め弾正」の異名をとり                 ついには旧領を復帰します                                          幸隆が攻略した砥石城もいずれ行きたいです                      この幸隆が真田家中興の祖とされています                                     幸隆といえば佐々木蔵之介さんが演じた大河                『風林火山』でしょう、自身を武田家に誘った主役の山本勘助(演:内野聖陽)のライバルにして盟友                                                                      武田二十四将にも数えられる幸隆          真田の領地を取り返した幸隆の知略は昌幸に受け継がれました               次に幸隆の三男・昌幸、信幸や幸村の父ですね                                         三男ですが2人の兄が戦死したため家督を継ぎ           ました、個人的に銅像は昌幸像でもいいくらい    上田城といえば昌幸です、表裏比興の代名詞                                                      『真田丸』の草刈正雄さんが演じた昌幸は             したたかで外連味のあるキャラが立ち過ぎて           異常な存在感から主役を喰らいまくってました                             武田氏滅亡後からが昌幸の真骨頂                 西村雅彦さん演じる同じ国衆の室賀正武からも           『それは朝令暮改というのだ』と言われたように昌幸は舌の根も乾かぬうちにコロコロと態度を変えて有力大名の元を渡り歩き真田家を守りました                                                         向こう何十年、草刈さん以上の昌幸の適役は出てこないと思います                   そして兄は一旦割愛して弟の信繁こと幸村                        幸村はなんといっても大河のタイトルにもなったように一番の見せ場は大坂城の真田丸                     大坂の陣で真田家は上田城での二度を合わせて     徳川軍を三度撃退するのですがその三度目は真田丸跡を巡った際に紹介します               しかし到着後こんな看板を発見してしまったので                              まずはここから巡っていきますか            真田十勇士                               江戸時代の軍記物による幸村人気を経て           明治・大正時代にさらに真田幸村を爆発的なものとしたのが軍記物「立川文庫」                   庶民の中で一大ムーブメントを巻き起こします          その講談の中で大坂の陣にて幸村と共に徳川軍と戦った10人の架空の勇士が真田十勇士です                         何人か幸村家臣のモデルとなった勇士もいますが今だとフィクションエンターテイメントですね                                                         まぁ忍術使いの忍者🥷🥷出てきますから              忍者で名前もかっこいいし、豊臣軍(幸村は豊臣方)は敗れるので判官贔屓な日本人のハートを見事に射止めました       幸村と十勇士、ヒーロー🦸たちのモニュメントを巡ってから上田城へ行きます                   筧十蔵                     鉄砲の名手、家康を狙撃するも失敗に終わる                   穴山小助                    槍の名手、幸村と容姿が似ていて影武者も務めた                                  三好伊三入道                  大男で怪力の持ち主、大坂の陣で大活躍                  三好清海入道                  伊三入道の兄で同じく大男で怪力の持ち主                  海野六郎                    知略に長け十勇士のまとめ役                       根津甚八                  真田氏は先ほど紹介の大塔物語で祢津(根津)氏の家臣として真田の名が初出しています      甚八は祢津(根津)氏の一族なのかもしれませんね                                                        幸村の影武者として大坂夏の陣で戦死       俳優の根津甚八さんはこの名から命名しています                                  望月六郎                       火術を得意として昌幸の頃から従い真田丸で活躍                                由利鎌之助                  くさり鎌の名手、穴山小助に負けて加わった                     霧隠才蔵                      伊賀流忍者、雲隠れの術や水遁の術が得意                  猿飛佐助                    甲賀流忍者、諜報が得意で石川五右衛門と術を競ったこともある                 猿飛佐助が十勇士で一番有名ですね                              『真田丸』にも登場して藤井隆さんが演じました                                  大坂の陣で幸村に殉じて最初から最後まで真田専属忍者で出演シーンも多かった                               桜、間に合いましたよ🌸来てよかった       いや〜それにしても10人となると多いですね                     意外と散らばってたのでUターンしながらでした            途中で真田幸村という店名のラーメン屋を発見             上田映劇                            創業100年を超えるミニシアター中心の映画館           池波正太郎 真田太平記館              直木賞作家の池波氏の代表作『真田太平記』を        テーマにした博物館、真田太平記見た人には面白いのかも       富士アイス 上田店(じまん焼き)          ここだけ行列がエグかった、「志」に濁点❗       今川焼ですね、1個100円             あんこの量がすごかった    上田市のカラーマンホール                      旧上田市のシンボルマークである「六花文」と「ツツジ」をあしらったデザイン        これは至る所にありましたね             上田市を舞台にした映画『サマーウォーズ』の       映画公開15周年を記念した特別なマンホール       これは真新しかった、アニメのようです                          ここ海野町商店街だから「運の」でかけたのかね                                                           ちなみに真田氏は平安・鎌倉時代から続く信濃の名族・海野氏の祖先がルーツです                             十勇士にも海野性(六郎)がいるのは一族から             十勇士に一人出しとこって感じだったのかな           柳町(旧北国街道)                       昌幸が整備した街道ではないが上田城下町の街道が北陸方面との交通の要衝だったのですね           宿場町としても栄えたようです                                       説明板、参勤交代の大名(加賀百万石など)←と       前田家のことを伏せて説明してるのはなんでだろ            しかし人通りは少ないです                                         私が遠回りして寄り道してるからか                 長野県立上田高校                すでに区画としては城の三の丸エリアにいます                     これ高校の正門(校門)です                              この高校、校舎は上田藩の藩主館跡に建てられています                                                                校門は上田藩主居館表御門を継承されています                  先ほど割愛した幸村の兄・真田信之(信幸)                  この人が上田藩の初代藩主です                                                 関ヶ原合戦後に上田城は破却されてしまい                   その住居や政庁はこの藩主館が信之以降の藩主邸兼藩庁となりました                                                              1600年の天下分け目の関ヶ原                            小大名の真田家は家名を残すため犬伏の別れを        経て昌幸と幸村は西軍(石田方)につき信幸は東軍(徳川方)につきました                                                      ご周知の通り東軍が勝ち、真田の居城であった上田城は破却されたわけです(後に再興されます)                                               『真田丸』の真田信之(演:大泉洋)            信幸は信之と改名し、家康に2人の助命嘆願して                                                               真田氏の領地(上田・沼田)の安堵を勝ち取るにいたります                                                                                                        周囲には堀も残され、門、塀、堀はともに上田市の文化財に指定されています         卒業生はここが母校ってだけで自慢できますね         また上田高校野球部は甲子園に2回出場してます                                              勝利は1度だけですがこの校歌が聖地で流れた際は盛り上がったのでしょうね               さてやっと上田城址へ                   実はこの時期に来たのはこれが目当てでした     千本ノック⚾️より千本桜🌸だよ              上田城の城武将は幸村ですね                           名胡桃に昌幸、松代に信之と名城訪問で獲得できる城武将に一族3人て真田家すごいです                  上田城は1583年に徳川家康の命と資金援助によって真田昌幸が築城した真田氏の居城で                       上田盆地のほぼ中央に位置した平城になります                    1582年の本能寺の変後、上杉・徳川・北条の有力大名に挟まれて草刈り場となった旧武田領                         織田軍が撤退したことで真田領は返還されたものの独立勢力として自立するには厳しい状況でした                                                                                   最終的に秀吉が天下人に成り上がる頃に臣従して落ち着くまでは、上杉、徳川、北条と主君を乗り換えて乱世を渡り歩きます                  徳川傘下にいた際に上杉の備えとして徳川がスポンサーとなって築城したのが始まりです          《2025.10月登城の沼田城》           北条傘下時代には沼田領問題で北条氏から離反して徳川氏に臣従、上田城築城して家康から    沼田領を北条氏に引き渡すよう指示しますが     昌幸は断交、上杉氏に接近して家康と対立します                       この際に上杉氏への臣従の証として上杉に人質として出されたのが幸村です                     1585年、家康は自身が支援して建てた城を攻めることになります                                                            これが第一次上田合戦です                           調略を駆使して領土と家族を守り抜く昌幸の決死の籠城戦で徳川軍を撃退                         その後は信長の死後、畿内を制圧した秀吉に       全国の大名が次々と上洛して臣従します                  上杉氏も臣従して真田氏も服属することで秀吉から本領を安堵されました(徳川氏も上洛します)                                                        これから行く上田城はそんな真田と徳川の因縁の舞台なのです       二の丸橋             第一次上田合戦のジオラマ模型          まさにここがその戦地になります       二の丸橋の下に堀が見えます      往時は二の丸を守る堀、二の丸橋は土橋が架かっていたようです        徳川軍と同じく東側の二の丸からの入城      往時は水堀であった堀に降りると驚きます     昭和の時代(戦前)には鉄道が走っていたようです          たしかに線路があれば電車が走ってた感じします                       合戦のための防御機能として作られた堀は昭和の時代には人を運ぶ鉄道のルートとなり                   そして現在は散歩や観光の遊歩道として移り変わる歴史の浪漫を垣間見ることができます           徳川軍の気持ちになって突撃開始です         二の丸東虎口は枡形虎口というクランク(屈折して折曲った仕掛け)になっていて門や石垣で防御                                                   『真田丸』でもこの防備で徳川軍のスピードを殺してゲリラ戦を展開、周囲の石垣上の櫓から挟撃しました      東虎口櫓門                          上田城本丸の出入り口となる守りの要        左に南櫓、右に北櫓を配置し東虎口櫓門が繋いでいます         

      明治維新後に売却・破却されましたが                      1994年復元再建され、現在は上田城のシンボルとなっています                        しかし最初すごい学生の数でした、入学式のタイミングであったのかかなり混雑していたため            一度城内にあった博物館で時間調整しました                       南櫓         北櫓                             東虎口櫓門の石垣には真田石と呼ばれる巨大石があります、上田藩初代藩主の信之(信幸)が松代藩へ移封する際に持っていこうとするも巨大過ぎて動かなかったという    本丸跡は現在、広場となっていて天守は建てられなかったようです                                   代わりに櫓門が2基、櫓が7基あり、これは昌幸が実戦的な城を意識したからと伝わります      現在は復元の櫓門1基と再移築と現存の櫓3基                                                    本丸跡には石碑が建つのみですが桜も見頃で          観光客や地元市民が花見🌸を楽しんでいました                                                        眞田神社                           真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神とする眞田神社                         1879年頃に旧上田藩士らにより、松平氏の祖先を祀る「松平神社」として創建                  その後、歴代城主の真田氏・仙石氏・松平氏を合祀して上田神社→眞田神社と改称されました         当然、真田色が強くなってますね      夜に来た時に撮影                         『真田丸』の幸村(演:堺雅人)              幸村といえば赤備えの兜(鹿角脇立之兜)です                巨大な鹿の角の前立てに六文銭                     部隊まるごと甲冑・武具を赤で統一した赤備えは                             武田軍騎馬隊がルーツで井伊直政や幸村に継承           死を恐れぬ勇猛さは敵に恐怖と威圧感を与えて      この精鋭部隊は、時代を超えて最強の武士団の代名詞となりました         参拝客たくさんいました                       青年期の幸村像                            第一次上田合戦で指揮をとる幸村の姿とのこと                      これは『真田丸』の幸村そっくりに思えました            堺雅人さんにしか見えません❗                                                             しかし当主の昌幸の像は建てないのかいな           真田井戸                   こんな抜け道もあったとは、昌幸恐れ入ります                         本丸西櫓                        これは上田城唯一の現存遺構なので必見                             尼ヶ淵の河岸段丘上に築かれた隅櫓で仙石忠政により建てられ、その後は移築もされていない貴重な現存櫓です                                      尼ヶ淵の駐車場側から入城して登ると最初に見えてきますね                   忠政は漫画『センゴク』の主人公・仙石権兵衛秀久の三男で、関ヶ原合戦では東軍につきました                                                                                          第二次上田合戦は関ヶ原合戦の前哨戦です                 西軍につくと決めた昌幸と幸村は別れの舞台の犬伏の地から上田城に入城します                                       1600年7月、三成が挙兵すると家康は軍を二手に分けて美濃で合流を予定し東海道から決戦の地・関ヶ原へ軍を進め、秀忠は中山道を進軍しました                                              この秀忠軍3万8,000を美濃での合流に遅らせるため足止めさせることが昌幸の狙いでした                 2〜3,000の兵力で10倍以上の秀忠軍を迎え討つ真田軍は降伏すると嘘をついて時間稼ぎをしたり                                          門をあえて開城し、挑発して追い込ませて巧みな伏兵戦術で翻弄、また千曲川の支流(神川)の堰を決壊させて増水した激流で秀忠軍に大打撃を与えました                                                 この徹底的なゲリラ戦術により大苦戦した秀忠はついに上田城攻めを諦めて美濃に進軍                         結果的に秀忠軍は関ヶ原に大遅参してしまいましたが、本戦の関ヶ原合戦は開戦から半日で終わり西軍の敗北が決定してしまったのです          『真田丸』で戦況を見届けて戻ってきた佐助が報告したシーン、秀忠が間に合わなかったことをわかっていた昌幸たちは西軍有利で戦況を聞くものと思っていただけにわずか半日で終わったことに、ただただ唖然…でしたね              ちなみにこの秀忠軍には仙石忠政と共に信幸も加わっていましたが信幸の軍は真田氏の支城の      砥石城攻めにまわり、幸村は開城させたことで兄弟で血みどろの戦にはなりませんでした                 戦後、忠政は小諸藩を立藩し、その後上田藩に移封となるのです                             忠政の「忠」の一字は2代将軍・徳川秀忠から         頂いた偏諱であり、戦後に破却された上田城を再興させたのも忠政が入封してからです                                  なので真田時代の遺構は少ないのですよね             一方で松代藩へ移封となった前・上田藩主の信之                                                 父や弟と袂を分かってまで家名を死守し、戦後は真田領を安堵され、対立関係の解消に努めた信之でしたからこの移封は悔しかったでしょう                                                     移封となった年が1622年、すでに昌幸や幸村は                                             もちろん義父の本多忠勝や正室の稲姫                                 そして家康も死去して秀忠政権となっていました                                                          上田は北陸方面への北国街道や上州への真田街道も通り宿場町としても栄えた交通の要衝                     さらに秀忠にとって「徳川キラーの真田」のイメージは泰平の世となっても監視が必要で払拭しきれなかったのかもしれません         関ヶ原大遅参の最大の原因は上田と真田ですしね                                            幕府の信之への警戒に忠政が空気を読んだのかは分かりませんが、上田藩へ移封の強い意思を願い出てこれを幕府が受理したため、玉突きで       信之は上田藩から松代藩へ移封になりました                       《2024.7月、鶴ヶ岡城登城・説明板》                           その際に松代藩主だった酒井家は山形県の庄内藩へ。たどると最上家の改易なのですね😢                                                      秀忠政権では真田氏より仙石氏のほうが石高は低くとも信用度は高かったように感じますね   仙石忠政は大坂の陣で貢献してその尽忠をアピール、信之は大病を患い病床に伏せて不参加でした                                                    ただ加増移封なので秀忠は信之の顔も立ててます                                                                                                                                                              しかしそれでも秀忠への不満のあらわれか                                                                                                       納得していなかった信之は上田城を離れる際に家譜や重要書類を焼却したと伝えられています                                             たくさんの大切な人を失って、ついには上田の領地まで奪うのか⁉️と乱心してしまったのもあると思いますね、忍耐強い信之のちょっと人間的部分が知れて面白かった                              まぁ小諸も上田も松代も驚くほど近いので               距離に関しては現代人の引っ越しや異動のほうが遠かったりしますが地元愛が強かったのかも                                                            《2024.6月、松代城登城・信之像》                         ただ信之の凄さは1622年に松代に移ってからさらに36年も生きたこと😮😮                                                                             移封後失意のもと翌年死去…とはならない大往生                            1658年没、享年93歳という家康も驚きの生命力                                                        1615年の大坂の陣の不参加は幸村と戦いたくないから仮病では?と勘ぐってもしまいます                                                 夜の西櫓                   西櫓の前からは現在は埋め立てられて広場や駐車場となっている尼ヶ淵の跡がよく見えます       この広場、往時は川原だったんですね                                            かつて千曲川の分流が流れていた穏やかな川で          上田城は急峻な河岸段丘上に建つ城でした                               上田泥流層が侵食されて作られた崖         川原だった位置に降りて見上げると断崖絶壁        地層が露出しています                                          尼ヶ淵からの攻城はほぼ不可能でしょう      しかし川が増水すると尼ヶ淵の崖が侵食し地盤が緩むという恐れがありました                  城を守る天然の堀であると同時に崖を侵食して崩落する危険性と隣り合わせでもあったのです                          築城以来、尼ヶ淵は保護対策が講じられていて現在は大規模な石垣が設置されていますが           約5mの範囲で最近でも雨風により土砂が崩落した事例(2024年7月)があるほど、軟弱な地層(上田泥流層)が露出する場所です               尼ヶ淵からの桜と櫓(左:西櫓・右:南櫓)の景色は   とてもよかったです      一度、東虎口櫓門に戻ります                        そのまま南櫓へ                                         西櫓は現存する唯一の櫓のため内部非公開ですが南櫓と北櫓は観覧可能です           (博物館共通券セットで500円)                                  本丸の東虎口を守るために北櫓と対になって立つ                                               2階建ての隅櫓の1つです                            櫓内は撮影OKでした      幸村には子が13人いてその嫡男だけが大坂の陣に参戦して父と共に散ったんですよね      『真田丸』にも登場してましたが13歳とは。。                               真田大助は名前が現代過ぎて信長の野望シリーズでもよく覚えていますが、生まれた時代が違えば能力も高かったと思われる武将です            他の子らは伊達家家臣の片倉景綱の息子の重綱に預けられました、ここも『真田丸』で描かれていて妻子&きり(演:長澤まさみ)ともども幸村から政宗へ託されて仙台真田家の礎となります                   信之だけが家名を残したと思いきや、大名としてではないですが幸村も家名を残してるのですよね                   小田原城で有名な城下町全体、丸ごと城の防御構造とする総構を取り入れた上田城                『真田丸』でも民や百姓一丸となって総構により徳川軍を撃退しました      南櫓からの尼ヶ淵、撮影ミスってました💦                 北櫓へ          幸村ミニュチュアサイズの銅像                撮影用に陣羽織や火縄銃もありました       友好城郭宣言というのもあるのですか            上田市立博物館                 東虎口櫓門前が混雑していたため一番最初に寄りました、北櫓と南櫓と博物館セットで500円           上田城の模型、尼ヶ淵が城の南側からの侵入を拒んでいますね〜                          上田城の初代城主・真田昌幸            昌幸も身の振り方考えてましたなぁ                    浅間山も噴火しましたしね       石川数正出奔の理由、大河『どうする家康』でもこの説が使われていましたね           第一次上田合戦後、徳川の内情や機密を知り尽くした数正の出奔により家康は真田どころではなくなり体制の立て直しを迫られました                 『真田丸』では昌幸の弟の信尹が牢の中から数正を調略、出奔させて真田家を助けました               信尹を演じた栗原英雄さん                           『真田丸』見るまで信尹を知らなかったので     真田一族やっぱり有能一家だな!と驚いた思い出           秀吉からの書状                小田原征伐が確定したもので、これを読んだ昌幸は家臣・鈴木主水を失うも安堵したことでしょう           関ヶ原合戦直前の緊迫した石田三成陣営の様子も伺えます       三成からの返書                               西軍につけば勝利した暁には信濃一国を与える      という条件をさらに甲斐一国も追加させる粘り勝ちで承諾しました(西軍敗れたけどね)                       しかし昌幸の娘が三成嫁の弟に嫁いでいたことは知りませんでした『真田丸』には未登場でしたね                                      上田藩初代藩主・真田信之            真田信之伝馬定書                                 信之が上田宿海野町の伝馬負担につい て注意を与えたもので、伝馬役とは公用旅行者のため の人馬継ぎ立てなどをする加役をいう       上田藩主として藩政に努めてる信之        一揆やお家騒動は改易に直結してお取り潰しとなる大名家も多かったので、信之は細心の注意を払っていたでしょう        それでも信濃国は全国でもトップクラスの百姓一揆発生件数を誇っていたようです                       上田藩だと上田藩宝暦騒動ですね                        石高が少なく港も塩もない長野県では必然か                                                                                                                                                      お次は既に紹介してました仙石氏                  仙石秀久所用の紺糸威二枚胴具足                                               秀久は漫画『センゴク』主人公・権兵衛のこと      漫画のキャッチコピーは「戦国史上最も失敗し、最も挽回した男」                          改易されて小諸藩主にまで挽回するのですよね     稲葉山城(岐阜城)落城で信長に拾われ秀吉家臣となってからの淡路・洲本5万石領主もすごい      波乱万丈の人生曲線は権兵衛が一番でしょう                家紋も見えます、やはりこの家紋                               当時流通していた通貨をモチーフにした永楽銭紋                                                黒漆塗金泥永楽銭紋散らし螺細鞍            永楽銭紋は権兵衛が信長から下賜されたと言われており、縁起が良いとして好んで使用されました                                           もっとも権兵衛は小諸藩主の時に死去しているので上田藩には入っていません                                          父・権兵衛の死後に大坂の陣で活躍した仙石忠政                                               評価され加増により上田藩主となりました                      仙石氏は3代、84年間を上田藩主として在任して但馬の出石に転封しました                                兵庫県にある出石城は200名城入りしているのでいずれ行くことになるでしょう                                      この仙石氏の転封と一緒に信州上田から蕎麦職人も移住して技法も伝わり、現在の出石そばのルーツにもなっているとか                                                上田領の引継文書                          仙石氏が上田を出る際に次に入封する松平氏に   対してまとめた上田藩の引継文書               引き継ぎは現代社会でも当たり前の業務ながら前任者の能力も問われますよね                    真田信之は松代転封の辞令に対し、キレて家譜や重要書類などを燃やしてしまったから真田→仙石への引継はほぼなかったでしょうから         仙石氏から松平氏の時代となり7代165年で               明治維新を迎え、廃藩置県に至ります                松平氏といっても藤井松平家の分家です                    譜代大名ながら上田藩(藩主・松平忠礼)は                  当初幕府に殉じる構えでしたが、立ち場を逆転                          新政府に恭順の意を示して官軍に加わりました               北越戦争などで旧幕府軍と戦い、軍功を挙げたため、新政府から3000石の賞典禄を下賜されます                               徳川御三家の尾張徳川家も早い段階で新政府軍につくほど情勢も変化していたので分家としては長いものに巻かれることは必然だったのでしょう           新政府軍の武具は最新式でしたからね        ペリー提督から幕府への献上品(140品)のうち    8品を上田藩は受け取っていますが、さすがに幕府軍には従わなかったか                             赤松小三郎 幕末の洋学者・兵学者                                坂本龍馬に先駆けて二院制議会政治を提唱した      議会政治の先駆者ともいわれています                  龍馬が「船中八策」を提示するより先に赤松は             「建白七策」を将軍・徳川慶喜に提出               上下二院制の議会の設置や公選による人材登用     そして外国との交易拡大を唱えました                       政治思想・政策論において龍馬とも交流を持ち国家構想の実現へと活動していましたが明治維新を前に奇しくも龍馬と同じく暗殺によって日本の夜明けを見ることなく生涯を閉じました                          過去に薩摩藩に依頼され、藩邸で教鞭をふるった際にその中の生徒の一人であった中村半次郎によって斬られたのです                                        半次郎は幕末の四大人斬りの一人ですね      最後の最期まで西郷隆盛と運命を共にした半次郎                              赤松の暗殺の黒幕は西郷隆盛といわれています     幕府にも薩摩藩にも出入りしている赤松は藩の軍事機密にも精通していたことで口止めによる政治的粛清なのでしょうか                  西郷どん、「敬天愛人」はどうした⁉️               その赤松とも交流のあったお隣、松代藩の兵学者・朱子学者・思想家の佐久間象山が開発した電気治療器と地震予知機                  とてつもなく頭のきれる学者でしたが佐久間象山も(こちらも四大人斬りの一人、河上彦斎に      よって)暗殺されたのですよね       田村淳さんはいろんな城で登場していますが         ほんとに城好きなんですね、リスペクトです       上田城、資料館が充実しててよかった             本丸土塁の隅欠(すみおとし)                               鬼門といわれる北東の土塁の隅を切りこむ鬼門除けですね、これ他にどこかの城でも見たなぁ             未完成だったか、長寿の信之だったら完成していたと思うけどそもそも修築許可出ないか              上田市観光会館                           木彫りの猿飛佐助像が目印        駅前と同じポーズの幸村像が出迎えてくれます      1階は上田城グッズやお土産など売店                2階は観光案内所でした        ご当地ガチャガチャ好きすぎる             2階は是非行ってみてください                   『真田丸』で使用された衣装や武具がズラリ★        いろいろ見てるだけで時間が過ぎていく     登城した真田氏ゆかりの城も懐かしく感じます       御城印と眞田神社の書き置き御朱印             そして❗やっと手に入れました‼️        真田街道六城攻城記念の御城印                                   この六城全てを巡って御城印を見せるといただけます、これは素晴らしい企画👍👍👍               中山城だけ200名城入りしていないですが            アクセス的には岩櫃城の前後になるでしょう             同時に現在は更新されて真田街道八城御城印なるものが⁉️+2城は長野原城と鎌原城が追加                    調べたらガッツリな山城で岩櫃から上田へ西に行くとある真田の城で心配は熊ですね〜            ビジホチェックイン後、荷物置いてシャワー浴びて上田駅へ              やきとり番長 上田駅ナカ店            せっかくなので信州上田発祥の食「美味だれ焼き鳥」を堪能      焼き鳥の盛り合わせを注文して待ってる間               駆けつけにもつ煮を信州りんごサワーで流し込む                                      もっぱらここ数年はビール控えています      ええ...ガンマGDPがヤバいのです😢           ロンブーの淳さん来てるじゃないっすか      しかも真田丸なんてメニューもある、注文✌️     真田丸のもも焼きは時間がかかった分、しっかり全体に火が通ってて絶妙な焼き具合      肉厚があり食べ応えがありました           そしてニンニクが効いた醤油ベースの濃い味が特徴のどぶ漬けの美味だれ、これビールとの相性は抜群でしょうね〜当然、二度浸け厳禁です                        秘伝の美味だれは瓶入りで販売もしてるので土産物にもなります、ごちそうさまでした       店を出ると辺りは暗くなっていて、駅舎も照明がついてました         上田城千本祭り開催🀄️             昼行ったら夜も行きたくなるもの、桜ですから       二の丸橋の下の堀、昼とは全然違いますね       屋台も賑わいブルーシートを敷いて花見に酒盛り             本丸を囲むように堀の外には夜桜と屋台が並び            東虎口櫓門も450年前にここが激戦の地だったと思えないほど綺麗でした                                                                                                                                                                                                                                                                                        眞田神社の絵馬の道も綺麗でした                        徳川軍を2度撃退した落ちない城ですから                受験生にとって落ちない合格祈願の神社として人気です                 本丸跡はゆったり花見するには穴場だと思います                    西櫓と南櫓もライトアップされてました                      再び上田駅へ              上田城も記憶に残る城巡りとなりましたね       翌日も天候悪かったけど見納めに行きました😛              幸村は1凸まででした、夜ってあまり出ないもんなのかな                  城めぐりアプリもやっと500城登録                 名声も上田にも届いてありがたきしあわせ                                                                                                                    徳川の命により真田が築城して徳川の命により    真田が破却した戦国乱世のために生まれた名城                  次回は連泊ですね

上田城                      ◯スタンプ設置場所                上田市立博物館                 ◯交通アクセス              JR(北陸新幹線)、しなの鉄道(しなの鉄道線)     上田電鉄(別所線)「上田駅」お城口から徒歩12分

                                                             

番外編👌奈良大仏・東大寺(2026.3/26観光名所53・奈良県)

       奈良大仏殿・東大寺                                            世界最大級の木造建築物(高さ約49m)に                            国宝「奈良の大仏」こと盧舎那仏坐像を安置する世界遺産

       郡山駅から奈良駅へ                 かなり大和郡山城に時間を費やしていました💦          まぁ優先順位は200名城なのでいつも城巡り以外の予定はずれ込むのはご愛嬌です      奈良駅でバスに乗り換え       東大寺大仏殿・春日大社前バス停着        東大寺は古都奈良の文化財(興福寺、春日大社、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、春日山原始林)の8資産の1つとして世界遺産に登録されています             8資産の1つの春日大社はまた奈良県に行った時ですね                   奈良公園あまり人いない       鹿をイジメる輩もいないので平和です       東大寺への参道を直進                    鹿は平然と道で糞を垂れ流すのですが💩💩💩                   ディズニーなみにスタッフが掃除🧹、回収してくれてます                                     中学の京都・奈良修学旅行以来の東大寺へ                                  当ブログの目的は寺巡りではないのですが          奈良の200名城も登城しましたし                                  やっぱり最後にここだけは行きますか                             東大寺南大門★国宝★               東大寺の正門ですね、これは痺れました                                創建当初の南大門は平安時代に大風で倒壊し                  現在の南大門は鎌倉時代に東大寺復興に尽力された重源上人によって再建されました            鎌倉時代再建ですからね、法隆寺でも室町時代ですから約820年前の国宝建築物に脱帽です                 巨大な木造二重門に高さ約25m、幅約29mのスケールは「日本最大の山門」の豪壮さを今もなお                        漂わせています、これ腐った木材などの修復を   ほぼしてないんですよね                                          しかし南大門前は鹿と人混みによる賑わいは大変な状況で、やはり私は静寂に満ちた山城のほうが合ってるのだと実感した           そして南大門、左右に安置されている金剛力士(仁王)像です                                 阿形像                                吽形像                      1203年に運慶、快慶らがわずか69日間で造り上げた、高さ8m超の巨大な木造像                 筋肉隆々とした体躯と強烈な憤怒の表情で鎌倉時代の写実的な表現が特徴です                         私なんかはGANTSの世代なので金剛力士像を見ると「あばれんぼう星人・おこりんぼう星人編」が絶対浮かんでしまいます                                特にこの星人編はそれまでの星人に比べて絶望感が異常で犠牲者も出まくったので印象的でした                        724年に即位した聖武天皇は積極的に唐代の文物制度を採り入れて国政の充実に努めました    743年に「大仏造立の詔」を発し、752年に大仏の開眼供養が行われました        社会不安を仏教の力で解消しようとした「鎮護国家」思想に基づくものでした                    聖武天皇のほか、行基、良弁、菩提僊那という四聖(ししょう)の4人が東大寺の創建に関わった重要人物とされています       拝観料は800円(ミュージアム共通券も入れると+400円です)      東大寺大仏殿、正式には東大寺金堂と呼びます   大仏を安置している世界最大級の木造古建築ですから、それはそれはすごい人の数でした                       奈良観光したら必ず訪れておきたい超有名スポットだけに観光客がたくさんいました             特に外国人観光客が目立ちましたね                                    ここは一年中、賑わいをみせてるんだろうな              桜はもうちょい感でしたが充分満足🌸       東大寺大仏殿は創建以来2度焼けており             現在の建物は江戸時代中期に再建された三代目になります                                                                                                  ●初代(奈良時代): 758年頃完成、聖武天皇が創建                         源氏と平氏の戦(南都焼き討ち)で1180年に焼失                             ●二代(鎌倉時代): 1185年大仏開眼、翌年落慶          重源が再興、1567年に全焼                                  ●三代(江戸時代・現存): 1709年落慶供養      公慶上人による再建                               大河『平清盛』                1180年の南都焼き討ちは平清盛が反平氏勢力(東大寺・興福寺)を鎮圧するために東大寺・興福寺を攻撃し、その結果、東大寺の大仏が炎上・焼失しました                               この「大仏炎上」は、平氏が仏敵(仏教の敵)となる大きな転換点であり、急速に衰退へと向かう「破滅への道」となったのです        大仏焼失後、2ヶ月余りで清盛は熱病で亡くなり                                           大仏復興には仏教を護る源氏・源頼朝や重源上人の尽力が大きかったようです                                                      この大河見てないので知りませんがさすが国宝           偉人との関わりが深いですね                            そして大河『麒麟がくる』で饒舌でヒールがお似合いの吉田鋼太郎さんが演じた松永久秀                          1567年の大仏殿全焼は言うまでもなく松永久秀と三好三人衆の戦の兵火によるものですね                                                                                東大寺の戦いとして戦国史にも残ります                                         奈良の中心部である東大寺は、大和国における軍事的な重要拠点であったため三人衆は東大寺大仏殿周辺に砦や小屋を築き、本陣を置きました                                              現在では放火ではなく失火(鉄砲の火薬が引火したとも)といわれています           大仏さまは以降100年以上も風雨にさらされることに。。                               金銅八角燈籠                           金銅製の八角形の燈籠、これも国宝              見上げると圧巻の木造建築です             大仏殿には「観相窓」と呼ばれる窓があり正月などでは窓が開いて外からも大仏さまのお顔を拝観することが可能なようです                                                                                                                              そして金堂入ったらもう目の前に❗       本尊の「奈良の大仏」こと盧舎那仏坐像                  中学の修学旅行以来です、ほとんどの皆さんも     1回目は修学旅行ですよね             こんなに大きかったのか〜圧倒的インパクトが      強すぎて立ちすくみました                       東大寺の戦いによって大仏の頭部が溶け落ちるなど東大寺は深刻な被害がありました                            1567年から江戸時代に修復されるまで130年近く                                                   焼失後は戦国時代の混乱期なので大規模な修復が行われず、銅板で仏頭を覆う程度の仮修理しかできないほど難渋しました                            実際には頭部だけでなく肩や腕など、体部もかなりの部分が溶け落ちたようです                                                                大河で見る三英傑による幾多の合戦や出来事が起きた最中もその間、ずっと荒廃したままだったのか……飛鳥寺(飛鳥大仏)もでしたね            やはり雨ざらしの状態だったのですね       現在の認識で大仏=奈良といえるほどの奈良の大仏でも復興は停滞していたのか           一枚一枚に毛彫技法で蓮華蔵世界が描かれ      盧舎那仏(ビルシャナ仏)の光明と無限のつながりを表現している当時の美術工芸の精華             虚空蔵菩薩坐像                  最初に大仏殿が建てられた1,000年後の1752年に作られました、「無限の知恵」の象徴だそう      こちらも270年前だけあって威容を誇ります       廣目天           多目天                   ともに江戸時代に作られた四天王像のうちの2体                                      この下部に穴が空いた柱                         大仏殿の中で「鬼門」のど真ん中に立っている柱とのこと                                               邪気が鬼門から流れ込み堂内に蔓延してしまうために柱に穴を開けて邪気の流れを逃がすようにした「鬼門封じ」が穴が空いてる理由だそうです            柱の穴くぐり                                     長蛇の列が出来ていました          最初くぐれるだろうと入ってみるも厳しくて引き返す猛者もおりました                             大仏の「鼻の穴」と同じ大きさ(30cm×37cm)                               とされる通り抜け体験スポットです                 くぐり抜けると「無病息災」「祈願成就」のご利益があると言われ、修学旅行生や観光客に人気           これ絶対無理だろっていう外国人の大人たちも挑んでは断念してましたが、愉快に笑ってる姿を見て外国人のユーモアの素晴らしさを実感         日本人は通れないのわかるから傍観するのみですからね、子供は楽しそうにくぐり抜けてました                     皆さん邪気を解放されていました             大仏さまの真後ろ側から撮影                     光背の裏側も黄金色に輝きを放っていました     創建当初の伽藍(1/50スケール)の模型      大仏殿鎌倉時代再建時の模型      大仏殿江戸時代再建時の模型        見てわかる通り鎌倉時代再建の大仏殿のほうが規模が大きかったのですね、さすが頼朝                        ぐるっと大仏さまの周りを一周しました        紹介した2度の戦火によって焼失された大仏さまですが造立当時の姿がわずかに残存しています                                      台座や腹部など一部が残存に留まりました    離れていて肉眼ではわからなかったな           如意輪観音像                 1738年頃に完成、虚空蔵菩薩坐像とともに大仏の左右に安置されていました         そういうのを脇侍っていうのですね          ありがとうございました🙏        賓頭盧尊者                   最後に出入口にて発見、自分の体の悪い箇所をなでると治るといわれる「なで仏」               もうそろそろ閉館時間となっていて、だいぶ大仏殿にいたんだなぁと驚いた           東大寺の石碑                 いつの間にか陽が落ち始めていました      行ったそばからですが、また行きたいですね     興福寺や春日大社も城巡り終わったら行かねば         中谷堂                     営業時間(18時まで)なんとか間に合いました        近くの興福寺や東大寺が17時終了なので私含め        参拝客勢が一気にラスト1時間で押し寄せました                   SNSで高速餅つきパフォーマンスが話題となった中谷堂、そもそもここのよもぎ餅は大人気で      柔らかくてもっちり食感                   1個200円、勢いで5個購入            奈良で食べた餅や団子みんな美味かったな        閉店のギリギリでも長蛇の列でした      奈良市、鹿(奈良公園)のカラーマンホール            粉もん屋 八 奈良餅飯殿店       序盤の大和八木で2日連続でたこ焼き食べてから                                   なぜか最後にまたたこ焼き食べたくなった              花園新温泉                        昭和レトロな町の銭湯へ       城巡り旅、夜行バス帰りの最終日は歩くだけ歩いて銭湯に入って1時間以上、あったまります      六甲おろしの歌詞の暖簾がある時点で当たりです                       これ同じのが私の自宅玄関にもかかっています           出たらもう夜に突入してました            これはバスの中で爆睡コースです                     夜の奈良市内のお祭り🎆みたいな店を散策して           土産はこんなもんで           奈良駅に到着                                                                                                                                                                                                                                   2階建てバスの2階でしたが揺れにも気づかず                       京都、滋賀あたりまでは【出陣】拠点取りに没頭して目が疲れたらそのまま果ててました😀                            

学生の頃、日本史の教科書で見た建造物や仏像などを生で見て奈良県は日本国の始まりを物語る宝庫だとしみじみ感じました                               710年に平城京が置かれ、古代日本の政治・文化の中心として、中国や朝鮮半島から伝来した仏教や技術が融合し、日本独自の文化が大きく花開いた歴史的な拠点の古都・奈良                                                                                       さらに世界遺産候補の「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」のほうも少しですが触れる旅となりました、太古のロマンここにありですね                                                                                         

そして戦国史では・・・                                              松永久秀、筒井順慶、柳生石舟斎、豊臣秀長…            みな偉大な戦国武将でした、城巡りに多く時間を費やしましたが予定通り巡れたので満足👌                                    となれば今年の大河『豊臣兄弟❗』は完走して1年見続けよう🎵                                                       5日連続で20キロ歩いて計110キロ踏破しました                       気温が高かったら絶対無理ですね                 ではまたどこか行ったら更新します🙏

東大寺                          ◯交通アクセス                      近鉄線「近鉄奈良駅」から徒歩18分         近鉄線「近鉄奈良駅」から奈良交通バスで「東大寺大仏殿・春日大社前」下車、徒歩5分      

        

 

第70登城🏯大和郡山城(2026.3/26続日本名城165・奈良県)

今年の大河ドラマ『豊臣兄弟❗』               面白いですね〜、皆さん見てますか👀⁉️                    池松壮亮さんと仲野太賀さんの兄弟愛と家族たちの家族愛は穏やかな雰囲気でほのぼのしますが                           なによりも小栗旬さんの狂気の信長は今のところ一番印象的ではないでしょうか        一家団らんの和気あいあいの場面と信長評定の場面の緩急は新たな戦いが始まる一連のプロセスとなって作品全体が引き締まります                         また、初めて知る役者さんが多いですが皆さん良い演技されていて違和感を感じることはないですね、松下洸平さんの家康とかサイコーです                                  毎回ちょいちょい、後の伏線が見え隠れしてるのも役者の表情みて楽しめています       作品ではまだ先の話になりますが、秀長公が後に治めることになる大和国・郡山城へ                    

     大和郡山城                 今年大河主役で話題沸騰中の秀吉の弟・豊臣秀長                                                                                   「大和大納言」と称された豊臣政権No.2が築いた幻の名城                     

      前日の大雨で歩行距離以上に疲れたのか爆睡            少し遅めで8時起床、朝食は徒歩すぐのローソン                       新商品のからあげクンすだち味うまい       まずはJR奈良駅へ、バスターミナルから次々と観光客が観光バスに乗っていきます      奈良の2大マスコットキャラクター、せんとくんと双璧のしかまろくん                  JR関西本線(大和路線)で郡山駅へ              改めて説明すると豊臣秀長は秀吉の織田家での出世から、ついには天下人にまでなったのは秀長なくしてなし得なかったとまで言われた秀吉の弟にして右腕ともいえる名将です                                大和国(現在の奈良県大和郡山市)の領主として郡山城を拠点に町を発展させました            まずは城と反対側の東出口から出ます                    大和郡山市観光協会                      時前に調べていた時から大和郡山市は金魚の街として知られているようで約300年の歴史を持つ日本有数の金魚の産地のようです       大和郡山市のカラーマンホール       秀長とは関係はないようで、1724年に柳沢吉里が甲斐(甲府藩)から入封した際に持ち込まれたのが始まりとされています                    吉里は柳沢吉保の嫡男ですね                大和郡山市のマスコットキャラクターの「デメッキー」がもろに金魚でしたね        反対側はメスの「きんとっと」の自動販売機           大和郡山市観光協会では大和郡山城の御城印以外に筒井城の御城印も売っています         なぜならこの大和郡山城(前々日に行った筒井城も大和郡山市内にあります)を最初に築城したのは筒井順慶なのですよね                                まだ信長が倒れる前の1580年、順慶は大和国の守護を与えられ大和郡山城完成とともに本城の筒井城を廃城にして移りました      順慶の死後、筒井氏は豊臣秀吉によって伊賀へ転封され大和は弟の秀長に入封させます                   信長の野望の秀長、すでに能力高いけどこれ大河後、数値上がるかもなぁ           統率・武勇は20ずつ上がってもいい         秀吉が「内々のことは宗易(千利休)に、公儀のことは秀長に」と言われた秀長                       あと大坂城の秀吉の支えは大名の配置見ればわかる通りですね                                                東の奈良に秀長、南の和歌山には親戚の浅野        海を挟んで徳島が蜂須賀と秀吉が信頼する大名で固められていますよね              すでに大河では秀吉与力として3人とも活躍中                     城に行く前に外堀を歩きます      秀長入封によって本格的に整備、改修された大和郡山城                        1595年に豊臣政権・五奉行の一人の増田長盛が入封して外堀の普請しました                                全長は580mに及びます       現在は遊歩道公園となっており市民の憩いの場となっています                      空堀は前日の大雨の後でも水はなかったですね                  輪郭式ですね                  現在地は三の郭(丸)の外堀(右下)あたりです               1595年というと豊臣政権内部の結束が乱れ    後の関ヶ原合戦へ繋がる一因となったとも言われた関白の秀次切腹事件が起きた年               秀長はその4年前に死去していました                     五奉行(筆頭が石田三成)の一人であった増田長盛の立場は難しかったでしょうね        関ヶ原合戦では筒井順慶ばりの洞ヶ峠を決め込み、中立を保ちましたが戦後改易となりました             外堀を抜けてさらに進むと箱本十三町案内板がありました      城下町のうち「内町十三町」と呼ばれる外堀の内側にある13町の自治組織を「箱本制度」と言い、各町が月替わりでその当番を務めました      13の町の一つの紺屋           江戸時代から続いた藍染め商の町家です       秀長は城下町の発展に注力しました      再建された火見櫓                      各町が地子(宅地税)の免除などの特権を持つ代わりに、町の警護や火事の対応、伝馬の管理などを担っていました                          箱本制度は防火体制も担っていたのですね   沼田城の鐘楼に似てました            格子造りの町家が多く大河PRもあって散策が面白い         桜餅 桜餅大好き😍なんですよね      見えてきました追手東隅櫓(画像中央)                    左は追手向櫓、2つとも復元された櫓です                            線路が見えるので城のすぐ横を鉄道が横断するやつですね、過去このようなインフラ整備で外堀を横断する城を見てきたので思い出されます                          (広島県の三原城が一番たまげたけども)            ついでだったので近鉄橿原線が通過する瞬間を撮影📸しかし天候と肝心の桜はまだ二分咲き       それでも城と鉄道という中近世と近現代の景観と技術の融合に思わず見惚れます        まず今回の奈良県城巡り、発端はこの【出陣】2.5周年生放送でのイベントの発表です                                   はっきり言ってまだ奈良県は考えていませんでした、なんなら秀長が大和国に入封する大河放送の時期に合わせて秋頃に行く予定でした                    しかし報酬の「せんとくん」フレームが欲しくなり、お城祭り🌸もあるし奈良の山城も攻めるなら今しかないと決断して強行した次第なのです                                これは行くでしょ❗      鉃御門跡から入城、たまたま人がいないタイミングで撮影しましたがたくさん来場者いました       ただ本番はライトアップされた夜でしょうね              鉃御門跡は三の丸から二の丸へ入るための関門   江戸時代では二の丸が城の中枢となっていました                          鉃御門は門の上に櫓を構えた櫓門の構造で柱や扉に鉄板を張っていたことが由来                石垣隅部に注目すると危なっかしい形の石が乱暴に算木積みされています      屋台も出ていてお城まつりって感じです      昼メシはここにしよ🤤        本丸周辺の内堀を含む城内一帯を囲むように多数の屋台が出店していました                   屋台見るとお腹減るので背を向けて歩きました         しかししかし本日も雲行きが怪しいんですよ       最近寒かったから桜はまだ完全に開花🌸してないです         郡山城跡由来                                    秀長や増田長盛で完成させ、その後に水野勝成が入ったのか〜                     その間に着服で有名な大久保長安が入り、大坂の陣の時には城主に復帰した筒井氏が豊臣方の猛攻に遭い城を置いて退去                     これは郡山城の戦いとも呼ばれています                         戦後、城主だった筒井定慶は自害しています                                  この時に城は荒廃して一時は廃城となるも水野勝成が刈谷(三河国)から移封してきて城郭の修築しますが途中のまま福山(備後国)へ転封となります                            本丸と二ノ丸、三の丸の一部と家中屋敷の修復は勝成の時代です                               武功のイメージが強い水野勝成ですが大和郡山での治世は忘れてはいけないところ       竹林門跡                   ここから本丸に入ります❗              竹林門跡前にまた金魚のカラーマンホール       ってことは当地に金魚養殖を伝えさせた柳沢吉里関連の史跡もきますかね       きました柳沢神社(時前に知ってたけど)         柳沢神社は1880年創建、郡山藩主・柳沢吉里の父で徳川綱吉に重用された側用人・柳沢吉保公を祀る神社です、吉里じゃないんだ                  水野氏の後は松平氏と本多氏が交互に入藩し      1724年に柳沢吉里が(金魚を持ち込んで)入り        柳沢氏が6代続いて明治維新を迎えて1873年に城は廃城となりました                                                                    この金魚たち、拝殿前に水槽が横並びしてる                これは珍しいんじゃないか      ならばと参拝後は桜の限定御朱印を購入します               大和郡山城址碑                   続日本百名城選定後でこんな城趾碑が建つのは気合い入ってますな、思えば「続」なんですよね                                                           大和郡山城は秀吉が最も信頼した、大和・紀伊・和泉100万石を有した秀長が拠点とした名城なので百名城に入れていいと思いました                      が、奈良県には日本三大山城の1つで山頂の巨大過ぎる城郭に膨大な量の石垣が残ってる高取城(23日登城)が百名城入りしているだけに郡山城は次点にならざるを得ないのかな                                           関ヶ原合戦後も建物は取り壊され、現在に現存する天守や建物はなく、櫓や門は近年の復元で本丸跡や天守台の石垣のみが遺構となってます                しかしここの景色はなかなかですよ      あの橋が2021年に復元された極楽橋か         月見櫓跡         月見櫓もなかなか、しだれ桜良いですね      月見櫓はその名の通り月を見る櫓で宴や景色を眺めるために建てられましたが、所用で出ていた藩主が帰城の際に監視が到着を確認する「着見櫓」という意味も含まれています                なので月見櫓は城の建物の中でも高台にあります                   そして天守台、たくさん人がいました             ここが大和郡山城で一番高い場所です            よく見たら天守台ともう一つ何かあります      接続された石垣台はどうやら展望台?のようです            その前に天守台の北面石垣にある「さかさ地蔵」を拝見します                        秀長による大和郡山城の築城は急ピッチでした        石材不足を補うために近隣の寺院や墓地から石仏や墓石、五輪塔などを片っ端から大量に集め石垣の材料として転用した「転用石」を使用しました                                                転用石は石垣や石段として石を積み上げる際に           本来その目的ではない石材を転用して積上げた石                     しかし何百年も前の石仏や墓石を持ち運んで         荒々しく積んで罰当たりとか思わなかったのかね                さかさ地蔵、現在は石垣の隙間からその姿を見ることができますが……                                   頭を奥に埋め込まれた仏身90cmの地蔵菩薩立像                                            これは直に肉眼で見れる人いるのでしょうか💦                                               赤ん坊👶サイズの小顔の人以外無理では⁉️    しかしお地蔵さんかわいそうに。。                                         スマホ突っ込んでこのへんと思われる位置で撮影                                  わかりますかね?下が頭で顔が見えます                   左手に宝珠、右手に錫杖を持っていました                                                                                               けっこう人が並んでいたのでTAKE2が限界でした           平城京羅城門礎石転用石                           さかさ地蔵のすぐ近くにある転用石       一目で色のような違いから目立ちます              平城京の礎石ですよ、これも持ってきたんか秀長                                                                               石仏や墓石を石垣に転用することは豊臣政権が地域の宗教勢力を統制下に置いた証を表していると言います                   また、破却した多聞山城の石垣も転用してます              松永久秀が周辺の石造物を転用して築城した多聞山城を後に破却してその石を転用したのです                        このように石材不足・短期間の築城が理由で石のリサイクルによってかき集められた城は全国でも多々あります                                               高取城も周辺の古墳から無差別に運ばれた石棺などの転用石がありましたがそれだけ奈良県は石切場が乏しかったんですねぇ                戦国時代後期、信長の安土城を皮切りに全国で広まった天守城郭の築城ブーム                   この頃までに飛鳥・奈良文化を残す石造物はいかほど残っていたんでしょうね                      石を堪能したので天守台に上がってみます    石段は明治以降に作られたものだそうです         上ると天守台の前にある展望台は付櫓台でした      付櫓台には地階入口が見つかっていて天守への階段があり明治の廃城の際に埋められたようです                                発掘した結果、深かったためそのままにしておくのは危険だと判断されて現在はまた埋められています               さて、次は天守台ですが過去の城巡りで         天守台が設置されても天守は建てられなかった         または残された資料が乏しく建てられたかも不明だったの城はいくつも巡ってきました                                                                                   この大和郡山城は後者で長らく実際に天守があった・なかったの論争が行われていました                          それが10年ほど前に決着がついたのです             近年、天守台の一部が崩れる可能性があって危険だという指摘により、約400年前の築造以来        本格的な天守台の整備工事が始まりました                           2013〜2017年の整備事業に伴う発掘・解体調査で、豊臣政権期の天守礎石、金箔瓦、付櫓台が発見され、幻とされた天守の確実な実在が証明されたのです❗                          天守遺構が現代に発見されたこの出来事はニュースや新聞などで取り上げられ話題になりました                                                                                                                      明智光秀が普請目付として着手しており、高さは約15~20mの5階建て相当の城だったということも判明して「豊臣秀長時代の天守」と裏付けられたのです                                                                          約10年前、天守が存在したことが判明しましたが                                                                  絵図や文献はないため、天守を再建してもそれは復元ではなく(模擬天守となり)国史跡における復元の許可は難しいと考えているところです                                 それがまさに幻の天守なのですね                天守台の礎石列の一部は撮り忘れました😮‍💨    行く方は本物の礎石なので絶対見たほうがいいです、時前リサーチ不足と現地見落としでした                                                        眺望は天守台からでも素晴らしいですけどね         奈良盆地が360度見渡せます            どこまで見渡せるのだろう            周囲に高層ビルとか建てようもんなら苦情くるだろうな         東大寺、興福寺、若草山方面      薬師寺、平城宮方面                秀長や光秀が眺めた大和の景観を堪能して                  極楽橋を渡ります、本丸と毘沙門郭を結ぶ内堀に架けられた木造風の橋です(今までいたのは本丸)               こちらが柳沢文庫、スタンプ設置場所です           柳沢文庫限定の御城印も販売してます       今回、観光協会で購入した御城印と合わせて   大和郡山城の御城印は3枚収集しちゃいました          柳沢文庫前に建つ五輪塔       二面石仏                    冥官(地獄の閻魔の庁の役人)像         反対は首から上が欠損した地蔵菩薩立像          鎌倉時代後期に作られたとされます      久護門跡        追手門から退城、梅林門とも呼ばれます      追手門は秀長の時代に建てられたとされています                                              五三の桐の豊臣氏の家紋が見えますね                 明治の1873年に破却されましたが1980年に築城400年記念事業で復元されました        車で来られる方は駐車場が手前にあるので追手門からの入城になります(お城まつり期間はテントが設営されているため変わるみたいです)                       そして追手向櫓、こちらも明治時代に取り壊さましたが1987年に復元されました                                  追手門を守るために建てられた櫓                  この櫓が大和郡山城のシンボルですね                              【出陣】登録🎵お城武将で秀長あったらなぁ                     そして…                     よしっ❗訪問イベントは達成感ありますね✌️           どうせなら昼メシは屋台でとお好み焼きとたい焼き購入                                二分咲きだが桜と内堀や本丸眺めながら休憩          豊臣兄弟❗ 大和郡山 大河ドラマ館               とりあえず観光客らしく城とセットで訪問                   豊臣秀長公像                  作られたんですね〜、大河ドラマ館入場ロビーにいました       ロビーが暗くてうまく撮れなかったな                 入場料は600円です、シアターとキャストのサイン色紙は撮影NG       秀長が生まれた愛知県名古屋中村でも大河ドラマ館が同時開催されているのですね         まだ謎多き慶さん(演:吉岡里帆)がいます                                  訪問時点で11回まで放送済みなので登場してます                        しかし最初の幼馴染の子はまだ生きてて欲しかったですよね〜      パネル写真展示がメインで陣羽織を着て撮影できるスポットもあります                              最初こんなみすぼらしい着物着てましたなぁ       撮影小道具も少なくまだ物足りない感はあります                   今回、居城巡った松永久秀(演:竹中直人)に期待         松永久秀=吉田鋼太郎だし竹中直人さん=秀吉   のイメージだが期待したい       天守の実在が判明されたので出土品も展示          シアターでメイキング映像やキャストのインタビューがあり仲野太賀さんが秀長への想いや         大和郡山の街並みを紹介してました                                             個人的に記憶に残ったのはプロデューサー?が池松壮亮さんに出演依頼の話を持っていった際に                            池松壮亮さんが秀吉を演じる自信は置いといて                『仲野太賀の兄を演じるなら自分しかいない』                                 と答えたそう                                        これは公私で親交があって気心の知れないとなかなか言えないので今作が面白いのはやっぱりこの2人の掛け合いなんだな〜としみじみ感じた               彼、調べたら大河『新選組‼️』の続編で                『土方歳三 最期の一日』に出てた市村鉄之助役で子役?時代に出演してたんですね(右の子)                 土方から託されて生き延びたことで現在知られる土方歳三の洋装写真が残されたわけですが          それはまた別の話ですね                                                                              大河グッズコーナー                    御城印帳に御城印、アクリルキーホルダーに       クリアファイル、マグネットなどいろいろ購入      5,000円以上使ってしまいましたがこれは満足                春岳院、秀長の菩提寺                                参拝して御朱印をいただく                           大和・紀伊・和泉3カ国を領した「大和大納言」百万石の拠点である大和郡山城                   秀長フィーバーは今年ずっと続くであろう                                                                                                                                                                                   

大和郡山城                         ◯スタンプ設置場所                     大和郡山城内「柳沢文庫」                                ◯交通アクセス                            近鉄橿原線「近鉄郡山駅」から徒歩10分             JR関西本線(大和路線)「郡山駅」から徒歩18分

   

番外編🏛平城宮(2026.3/25観光名所53・奈良県)

710年「なんと(710)素敵な平城京」の語呂で覚えた平城京、素敵でも南都はガッツリ雨☔です😮‍💨

     平城宮                                        奈良時代の日本の政治・儀式の中心であった天皇の宮殿跡                 

日本史でも習う平城京は710年に元明天皇が築いた奈良時代の都(現在の奈良市)で                        その中心北端に天皇の住まいや政治機関が集まる宮殿が「平城宮」といいます         奈良県は現存する国宝の宝庫に溢れていますが              平城京跡には往時の建造物は何も残っていません                                  しかし1,300年前、ここに現在の皇居、国会議事堂、霞が関の官庁街すべてが集中していた                                 往時の息吹を感じ帰京したいと思います                       

      県庁前バス停着                  柳生の里から奈良市街地に戻ってきました        静寂から喧騒へ、自分もその一人だけど観光客すっごいです             バス停の前に公園がありたくさんの鹿がいて本来はテンション上がるところなのですが雨が強まっててそれどころじゃない感じ😔             後日気づいたが尻がプリティだ🦌             エサなくてすまん、鹿も雨に濡れて大変だろうな            光景に慣れてる地元民の方々は気にもしない           つぶらな瞳で人を見る鹿       しかしこの雨で本日の予定は強制的にリスケです                                            ただまだ昼なのでホテル帰るわけにいきません     行きたい名所は減らしてでも行軍します           人が多すぎて1本逃して次便でなんとか三条大路のバス停に到着、ほんとは二条大路がよかったけどバス見送ったのでここから歩きます         最初の建造物が見えますね                   人が全く歩いていない、他の世界遺産はどうなっているんだろう                一つ言えるのはこんなに降られる前に午前中        柳生の里の山を登っておいてよかった             復原遣唐使船                 遣唐使か、無料で自由に乗船することができるらしい、飛鳥時代に小野妹子が派遣されたのが遣隋使(現在の中国の当時の王朝は随)でその後   唐に王朝が変わり、遣唐使になりました      この遣唐使船はその8世紀の遣唐使船を再現したもので当時の技術や渡海の様子を学べる資料展示もあります……これを後日調べて知りました                       シルクロードを航海した遣唐使船、かっこいい                                   朱雀大路を突き進む              この辺りの広場(朱雀門広場)、イベント時は催し場として使われるでしょうね、かなり広い                    誰かいます、棚田嘉十郎像           平城宮の発掘、保存に尽力した江戸末期の偉人       朱雀門(1998年復元)                       ここが玄関かと思いましたがもっともっと南に羅生門があってそれが都の入り口にある正門らしいです、つまり平城京の正門                                 ここは奈良市ですが羅生門は大和郡山市で4キロ後方です                                              さすが奈良時代、日本の中心地だっただけあります、皇居もめちゃくちゃ広いもんね                  羅生門のほうは復元されていません                          朱雀門はわかりにくいけど天皇が住む平城宮の正門てことですね                                  門前の広場は祝いの儀式などで賑わったとのこと                      テンションMAXで踊る人、一歩引いて眺める人     1,300年前も陽キャや陰キャがいたわけだろうな           710年の平城京遷都は、女性天皇の元明天皇が                   藤原京(現在の橿原市)から平城京(現在の奈良市)に唐の長安に並ぶ大都市を築いて律令国家の威信を示すこと、および藤原京が山間部で手狭かつ水はけが悪く衛生的な問題があったこと、さらに新たな政治拠点を求めたためとされています          法隆寺にもあった世界遺産の記念碑がこちらにも            雨がさらに強まったため一旦、施設に避難💦                                    雛飾り、今回いろんな所で見てきましたね                    奈良時代は710円の平城京遷都から794年の平安京遷都までの84年しか続かなかったんですよね                       また平城京が都だった期間は784年までです           あとの10年は現在の京都府の長岡京が都でした         平城京の広さは約120ヘクタールで、甲子園球場の約30倍に相当               東京ドームじゃないとこが関西らしい           奈良時代の貴族の服装            奈良時代は仏教が栄え、急激に寺院が増えたので服装も中国(唐)の影響が思いきり受けてますね                        横山光輝の漫画『三国志』や『水滸伝』なんかは貴族の格好はほとんどこんな感じです                   雨宿りでこの資料館を見学します        いざない館という資料館でした         平城宮は国営なので全て無料です           いつの時代も同じですな                        勤務時間は朝から昼頃の4時間程度だったようで労務は素晴らしい(しかし休日は月5日程度)        朱雀門を守る衛士               戦国時代よりさらに800年も前だから武具も貧相なのは仕方ないですね、こんな装備だったのか              平城宮全域の復元模型                         条坊制(碁盤目状)の都です                      その後に遷都する平安京(現在の京都市中心部)も同じですね、そういえば下車したバス停周辺の住所が二条とか三条でした                   貴族の食事      君等めっちゃ食うやん💨            ヒエラルキートップはいつの時代も上等だ          宮殿の骨組み、ここもはやミュージアムです   1,300年前の職人の技術の高さに驚かされます               そういえば奈良時代の大河ドラマってないですね                       人気がないわけではないのだろうけど                              また来ました朱雀門、結局雨は止まず❗     豪華な雛飾りもこの雨で見学客はほぼ皆無       門にいた警備の方によればこの先に大極門があり、さらに奥に第一次大極殿が復原されているらしい(第二次大極殿は復原されておらず跡地のみとのこと)            あ〜重なってますが奥にもう1つ見えますね   3つ並んでる(左の大きな看板?はあそこにあの建物があったということかな)                      この時点で数人の観光客が引き返してました    これだけ降ってて広いとね…         とりあえず行ってみると途中に踏切がありました                             ここ電車が貫くのか❗      近鉄奈良線が突き抜けていきます        待った甲斐あって良い写真撮れた📸          往時はこんな感じだったのですね         朝堂院は全体を指すこの巨大なエリア      北端に大極殿    西楼(工事中)、大極門の隣               大極門に奥が東楼ですね             東楼は完成したばかりみたいで西楼が完成したら三並びで豪華に見えるでしょう      大極門(大極殿の南に位置する南門)       唐の首都・長安をモデルにしただけあって朱色と白を基調とした色彩で中国古代建築が伺えます                                ここを通る人は貴族の中でもさらに偉いのでしょうね、近年復原なので綺麗です      ただの庶民がくぐります              いや〜広い、視界もきつい      第一次大極殿(平城宮跡)             実は平城京は、聖武天皇の時代(在位724〜749年)に別の地域に転々と都が移され、745年に再び戻ってくるということがなされています                             (平城京→恭仁京→難波京→紫香楽宮→平城京)                      そのため、平城宮は大きく、奈良時代前半の姿と後半の姿に分かれます               この前半と後半で、大極殿の位置が大きく変わり、平城宮には時期の異なる大極殿が2つありました            そのため前半の大極殿を「第一次大極殿」                  後半の大極殿を「第二次大極殿」と呼んでいます                                                            大極門から東に「第二次大極殿」がありました         こちらは復原されておらず跡地には石碑が建ってるのみです、いずれは建つのかもしれません      第一次大極殿、入館料はもちろん無料です      国営だからですね               前代の藤原京はわずか16年で放棄されたため        平城京はより大規模で長期的な国家機能を持たせるため計画的に建設されました                                発掘調査で出た出土品で平城宮跡出土木簡は      「古都奈良の文化財」の一部で国宝なんですよね                       現在も平城宮跡の発掘調査は継続し、木簡の出土も続いて点数も増加しているとのこと     普段は奈良文化財研究所に保管され、たま〜に奈良国立博物館で特別に公開されるようです                                                                        高御座                     国家の儀式の際に天皇が着座した玉座      天皇皇后両陛下が平城遷都1,300年記念祝典で詠んだもの    復原展示物は少なかったけど唐の影響を受けた奈良文化の再現に見応えは感じました       

      でも雨は変わらずでしたね、本日はもう厳しい       最寄り駅の大和西大寺駅      その前に駅周辺で雨宿りするかお店調べてたら安倍晋三元首相が銃撃された場所が出てきました             この駅だったのですね                    まさか平城京の最寄り駅とは。。驚きました      現場付近には献花台が設けられていました        事件が起きたのは2022年7月なのでもう3年半になるんですね、この事件はショッキングでした                  まだ16時、ライス無料か❗      グルメリサーチしても営業時間が17.18時までが多く、気分や好き嫌いもあって選べず              ガッツリ食べて明日は晴れることを祈って爆睡しようと夕食はライクにしました       本来の予定は薬師寺や唐招提寺でしたが         この雨では観光意欲も食欲も気分を乗せませんね                        本日はもうホテルに戻ります             先ほど行った平城宮、近鉄奈良線の車窓から              こうなったら通過しながら平城宮を見てみたくて大和西大寺駅で乗りました           近鉄奈良駅着                                   鹿の駅標、奈良公園や東大寺はJR奈良駅より近鉄奈良駅のほうが近いです                  本日は行きませんが前日のJR奈良駅同様、たくさんの観光客で賑わっていました                                行基菩薩像                  駅前にでっかく噴水⛲️の中に行基上人の像がありました、こんなタイプの銅像は珍しい      夜は噴水が行基上人を囲んで光ったりするのかな                    668年に生まれ、飛鳥寺などで修行して当時は例を見ない布教活動を畿内で積極的に行い民衆の支持を広げましたが朝廷からは「小僧」と蔑視されていたようです                           昔は僧侶は寺にこもってお祈りをするのがポピュラーでしたが行基上人は朝廷の禁を破り寺から出て仏教を僧侶以外の民衆にも広めたんですね                             いつしかその布教は大きな渦となり社会事業(インフラ整備)に乗り出します          人々の生活に直結する治水や橋、道路などの土木工事から貧しい人々のための宿を建設するなど民衆からの敬愛を一身に受けていきました ついには聖武天皇から大仏造立という国家の一大プロジェクトの責任を任されます              《翌日3/26に巡った東大寺大仏殿》         仏の加護により国家を鎮護しようとして発願した                                   聖武天皇は「一本の草、一握りの土でも差し出せる者は協力してほしい」と全国に呼びかけ                           行基上人も全国に出て寄付を募りました                        751年に大仏殿が完成し、翌年には盛大な大仏開眼供養がおこなわれましたが、行基上人はその3年前(749年)に他界していました                                                         その強力な指導力と人望が認められ、最終的には日本初の「大僧正」の位を得ました                          その目線の先は東大寺に向いており、大仏造立に奔走した在りし日の行基上人の姿が想い浮かびます                                                                                                                 御朱印がないので記念スタンプで😀              最後に…平城京が約74年間でその役目を終えた(都を移した)主な理由は、強大化した仏教勢力(寺院)との関係を切り離すため、および政治的・経済的な行き詰まり(疫病、物流の悪化、飢饉)が重なったためです                        皮肉にも聖武天皇と行基上人が仏教の力による国家鎮護を目指した東大寺大仏殿でしたが               2人の亡き後、東大寺をはじめとする大寺院が政治に干渉するようになったことで時の桓武天皇は平城京からの遷都が必要とすることになり長岡京を経て794年に平安京に移りました                  その後は周知の通り政治・文化・経済の中心となり、江戸時代に幕府が政治を握っても天皇や朝廷は変わらず存続して平安京は公家文化の都として約1,100年もの間、機能しました              1868年、明治天皇の東京奠都までですから奈良→京都→東京の都の歴史でも京都は長期に渡って天皇の居所でした(それはまた別の機会で)                                                                            せんとくんは「平城遷都」の「せん」と           平城遷都1300年を記念した「1000(せん)」               そして「都(と)」を組み合わせて一般公募から選ばれました                                  1,300年前、京都や東京よりも遥か前に日本の中心として栄えていた奈良の都・平城京                   それは日本の黎明期を伝える奈良時代の国家の基盤でした                           4日目も20キロ踏破              ほとんど柳生の里で歩き倒した感じ

平城宮跡                     ◯交通アクセス                近鉄線「大和西大寺駅」南口から徒歩約20分        近鉄線「新大宮駅」北口から徒歩約20分      大和西大寺駅から「朱雀門ひろば」行きの直通バス(約6~10分)                

番外編🏯多聞山城(2026.3/25選定外名城㉖・奈良県)

     多聞山城                  松永久秀が築城した近世城郭の先駆けとなる先進的な城、信長が権威を天下に示した蘭奢待の切り取りはこの城で行われた!

       おはようございます、早朝5時半起床です                   悲報……昼から雨☔☔☔くぅ〜〜〜っ😱😱😱                     これもう絶対降りますね😮‍💨なので早朝から動く               ローソン飯                               近鉄奈良駅、朝から天候悪い感じです      まず本日の目的は北へ、多聞山城に参る        現在は多聞城というのですね                      近鉄奈良駅から徒歩で行けます                          このへんの坂も遺構なのか                     多聞山城は1560年、松永久秀が標高115m           比高約30mの眉間寺山に築城した平山城です                              前年に大和国へ侵攻してますから第一の拠点       (その後信貴山城を改修してもう一つの拠点としています)としました                        《26日に巡った東大寺金堂の多聞天像》                   城は多聞天を祀り多聞山城と命名しました       多聞天は仏法では北方を守護する神将で、奈良県北に位置する多聞山城を支配する自身に多聞天を重ねて奈良の守護者と自任したものだという                                          多聞山城は日本初の4層天守を持つ豪華な城で安土城のモデルにもなったと言われています             いや…ここ、実はすごい城趾のようなのですよね                             後の天守に相当する四階櫓や、長い幅のある構築物で取り囲んでいる長屋状の櫓(外部からの侵入や攻撃に対してより堅固な櫓)が存在した           とみられ、近世城郭の先駆けといわれています        この多聞山城の櫓から、後に多聞櫓と呼ばれ                その後の近世城郭に大きな影響を与えました         全国の城巡りで見る多聞櫓の原点はここなんですね〜                                                   この多聞櫓や城内を見た信長は、4年後に築城する安土城にて「天守」として、更に豪華な独特の建築を確立させた訳です                  現在は奈良市立若草中学校となっていまして    早朝&春休み?で門は閉まっていました            城址碑はだいぶ先にあり、天守跡と思われる石段も見えますが、さすがに門を乗り越えて不法侵入するわけにいきません🤔                      周囲を歩いてみます、松永久秀って信貴山城でも四層の天守櫓があったとか言われているし         茶の湯にも精通してて多才過ぎませんかね            南側に流れる佐保川は外堀の役割を果たしていました         土塁           堀切          東堀切跡                   これは高い堀切です      許可なく立ち入り禁ず…開いているんだが躊躇する、早朝ゆえ誰もいないため進入できるが   それは侵入になってしまうので諦めます😑    実はこの上がった先から奈良市街が一望でき          東大寺大仏殿や興福寺の五重塔が望めるようで   久秀がここに城を築いた理由がわかります    めっちゃ上がって行きたかったなぁ            この堀底、歩くだけでゾクゾクしました            大河『麒麟がくる』での蘭奢待切り取りシーン       1572年、久秀は信長に謀反を起こしますが               翌年に降伏し多聞山城を信長に差し出しています                                1574年、信長はこの多聞山城で朝廷から名香「蘭奢待」の切り取りを許されました                 多聞山城で行われた理由には蘭奢待がある東大寺(正倉院)に近く安全に切り取り・検分を行える拠点だったためです                            また自らの実質的な天下人としての地位の誇示と                                       天皇の勅使を招いて正当性を示す演出の場として最適でした                                           1576年に多聞山城は信長の命により、久秀の大和国支配のライバル・筒井順慶により破却されて石垣は筒井城や郡山城に転用、主殿は京都へ                           高櫓は安土へ移築されました                                              また順慶を大和守護に任命したんですよね                            久秀は当然怒りのストライキ🤬🤬🤬                二度目の謀反を起こし、信長に攻められ信貴山城にて名器平蜘蛛茶釜とともに爆死💣🔥したのは信貴山城登城の記事でも触れた通りです                                                    久秀は信長の力量を見誤ったか、過信したか        なぜ足利義昭に接近して謀反を起こしたのか              信長の下で燻ぶった野心を留めきれなかったか                 信長の野望プレイすると久秀は重臣のままクリアするんですけどね〜                        早朝なので営業してませんでしたが近くに資料館もあったようでもう少し多聞山城を見学してもよかったな                                                   ちなみに多聞山城の御城印は現地(奈良県内)にはないようで墨城印版であるようです                            まさかの東京……スカイツリーかい❗         早朝さて次は…剣聖・柳生の里です🗡️

多聞山城                     ◯交通アクセス                  近鉄線「近鉄奈良駅」から徒歩20分         

 

番外編🏯柳生城(2026.3/25選定外名城㉗・奈良県)

       柳生城                       徳川家の兵法師南役を務めた柳生新陰流発祥の里

                  本日は高確率で雨天日です、史跡巡りに残された時間は午前中の数時間のみ……急ぎます🏃          多聞山城の後、徒歩で東之阪町バス停へ     柳生の里は奈良市にありますがかなり離れた山あいにあり、コンビニは一軒もないため         バス停近くのセブンで飲料は購入しときます     7時36分の奈良交通バスに飛び乗ります           約40分、山を越えて柳生バス停に到着             現在8時15分、はい時刻表こんな感じ       次便の奈良駅行き、20分後発は無理として                                          その次が11時50分発、これでしょうね               昼飯食べて13時20分発にするか迷うが時前の予定表通り進めたいところ       ともあれここが柳生の里か❗          漫画『バガボンド』では柳生編はかなり面白い回でした、ちなみに大河『武蔵 MUSASHI』は見てないのでわかりません          《2025.4月の姫路城登城でのおつう像》           おつうもここで一時、暮らしてたんだなぁ      おつうは架空のキャラだけども🤪                                   さっそく十兵衛杉が視界に入ります     江戸時代初期の剣豪・柳生十兵衛三厳が剣術を磨くため諸国漫遊に旅立つ前に植えた杉だといわれる樹齢約350年立ち枯れの老杉                1973年の落雷で枯死して白い幹をさらした状態となってもなお倒れずに残っています                   まずは降る前に山城へ、この古城山ですね     柳生氏の古城(柳生古城)ともいわれています    柳生の里には柳生城と柳生古城があるようです                この登城口ですが、Googleマップだと             民家の間を通って麓に入りますがコースもなく         案内板もありません                藪化とかのレベルじゃなかった🌳🌳🌳                           ↑こう指示されますが、これだと行けません☹️               いろいろ調べたら柳生東バス停の目の前らしい                    柳生古城へのアクセスで検索するより柳生東バス停でナビすればOK                        鉄製の階段があり、わかりやすい            伝承によると1331年の元弘の乱で柳生永珍が        後醍醐天皇の糧道を守るために築城したと伝わる山城です、永珍が柳生氏のルーツなんですね                                                  打倒鎌倉幕府を目指す後醍醐天皇に味方する形で柳生氏は歴史にその名が登場します      永珍から8代後の柳生宗厳が徳川家康に招かれ       五男の柳生宗矩は家康、秀忠、家光の三代に仕えて柳生藩は一万石の大名にまで栄進することになる                      そのすべてはこの地より始まった                                               柳生氏の原点ですね〜                   ゆるやかな傾斜の尾根筋を登ります                   そういえば初日から4日連続の山城です      堀切            しっかり管理されているのか歩きやすい       転げ落ちればヤバいですけども🫣      堀切またありました       主郭到着(本丸跡)思ったより早く着いた           1544年に筒井順昭が侵攻した際、本城である柳生城より先に落とされた外城がこの城であると考えられています             大和国国人領主の柳生氏は一族から多くの剣豪を輩出して江戸時代では徳川秀忠の兵法指南役として大名まで出世しますが、戦国期は戦乱に巻き込まれ主を変えて生き残り、その所領は太閤検地にて隠田の罪で没収されるなど険しい道のりもありました           宝篋印塔と13振の刀が納められた剣塚                  剣に生きた柳生らしい剣塚です                    柳生古城はこの後に行く南の柳生城の詰め城としての役割を果たしていたようですね                      柳生街道は奈良市街地から柳生へと通じる約21kmの古道です                                           奈良・平安時代には修行僧の道、江戸時代には柳生宗矩をはじめとする剣豪が往来した「剣豪の道」として知られています      もみじ橋         ここ紅葉時期は撮影スポットでしょうね                 柳生城へ                              古城より断然に急坂です      芳徳寺に到着                              石舟斎塁城跡                  これを見た時、漫画『バガボンド』が思い出されましたね(全巻持ってるので読み直しとけばよかった)                            痺れます🤓老齢ながら剣聖・柳生石舟斎             もはや剣の道を悟っています❗石舟斎とは入道(仏門に入ること)してから名乗った名前で        本当は柳生宗厳といいます                             芳徳寺                                           1638年に柳生藩主であった柳生宗矩が父・宗厳を供養するために創建した禅宗寺院で徳川将軍家に新陰流の剣術を教えた柳生家の菩提寺です                                 城趾の一部はお寺の敷地のようです        山門をくぐります       本堂は1711年の火災、3年後再建されました     200円の拝観料は入口の箱に入れます       柳生氏の兵法書や武具、資料が展示されています           柳生の家紋入の鞍を発見       柳生笠(二階笠)を二つ重ねた模様でUFOみたいですよね                             柳生家系図                      柳生家厳                     家系図の最初にある戦国期の柳生氏の地盤を固めた当主です、石舟斎の父                      筒井順慶や松永久秀といった大和国の有力大名が対立する中で、在地領主として生き残りを図りました      柳生宗厳(石舟斎)                           そして石舟斎様、柳生家を剣豪一家として繁栄させる土台を築いた柳生新陰流の開祖                       バガボンドでは仏門に入り石舟斎となって引退するもそのオーラは悟りの境地に辿り着いた仙人のようでした                           そんな剣聖と讃えられた石舟斎にも青い頃があり                                         最強の剣豪といわれる上泉信綱が大和国に立ち寄った際、宗厳(石舟斎のこと)は信綱の弟子に敗北                                       弟子入りして信綱の剣を学びます              《2025.10月の群馬城巡りで登城・上泉信綱像》                     一流は一流を知る、この出会いは必然だったのでしょう                      上泉信綱                   新陰流の創始者です、新陰流の理念「活人剣」と「無刀取り」は殺伐とした「殺人剣」ではなく                          相手を無力化し、真の平和をもたらす剣を目指す哲学                           柳生の前に剣聖いたんですね                      武蔵は石舟斎の屋敷に潜り込みますが           眠っているのに一切の隙がない石舟斎を武蔵は斬れませんでした                 まさに相手を無力化した無刀の境地ですね                                                「いかに鞘からぬかずにおくかそのために我々は死にもの狂いで剣を振っとるのだ」             新陰流の理念で上泉信綱から伝授された剣技はやがて柳生新陰流として開祖するのです            宮本武蔵のほうは違うベクトルいきましたけど⁉️        柳生宗矩                    家格を一気に上げたのは石舟斎の子の宗矩        元々は石舟斎が京に立ち寄った徳川家康の前で無刀取りを披露したことがきっかけで家康から       兵法指南役に迎えたいと申し出を受けますが      石舟斎は高齢、代わりに子の中で剣才の高い五男の宗矩を推挙しました                     宗矩は関ヶ原合戦や大坂の陣でも活躍し      家康から手厚く厚遇されて1万石の大名となり       初代柳生藩主として柳生氏の繁栄を築きました   徳川秀忠、家光と将軍の兵法指南役を務めてます           柳生新陰流木太刀                                柳生利厳(兵庫助)                 宗矩の兄で柳生厳勝の次男の利厳、石舟斎からは孫にあたります                     この人も当然、剣豪です。偶然にも武蔵と初めて出会って湯に浸かった際に同じタイプの匂いを嗅ぎ取った利厳(兵庫助)                                  石舟斎から寵愛され、やがて新陰流の極意を継承                       利厳は将軍の指南役となった江戸の柳生(宗矩)とは異なり、尾張徳川家に仕えて尾張藩の剣術指南役として流派を確立しました                                        また剣術だけでなく、薙刀の名手としても知られており、彼が伝えた「柳生新陰流薙刀」は現代の春風館にも継承されています                                                             そして柳生で一番有名なのは柳生十兵衛三厳です                                                    隻眼に二刀流の使い手の時点でビジュアル人気を獲得しますね、利厳(兵庫助)同様、柳生宗厳(石舟斎)の孫にあたりますが父は宗矩です                    隻眼ですが伝説があり幼少期に父・宗矩が投げた小石が右目に命中した、あるいは稽古中に木剣が当たったという逸話が有名です         マジか父上……              阪神でも中谷というドラ1捕手がいまして        (左が中谷、右がドラ2の井川)名前が似てる先輩投手の投げた携帯が目に当たり視力が大きく低下したんですよね                                    母校の智弁和歌山の監督として甲子園に戻ってきた時は感動しました                                            話を十兵衛に戻しますが、実際に史実としては両目とも見えていた可能性が高いようですよ         隻眼にしたほうが面白いという後の創作かな             伊達政宗が片目(右目)を失ったのは正真正銘で       政宗人気に倣ったのかもしれません                 十兵衛は映画『魔界転生』で主人公になったり格闘ゲーム『サムライスピリッツ』でも登場するので間違いなく知名度は抜群ですよね                                魔界転生は窪塚洋介、佐藤浩市のリメイクのほうしか見てないですが映画は良かった印象はなく十兵衛も二刀流ではありませんでした             どうやら1作目の魔界転生のほうが神格化されている様子で初代を超えられる2作目は難しく…                            「2年目のジンクス」ならぬ「2作目のジンクス」           拝観続けます、柳生藩印です          柳生藩は小石高ながら明治維新まで柳生家が治めきりました、これはすごいこと      ここ、終始拝観は私のみでした      本堂の内陣へ      3体の木像が安置されていました      向かって右側から 列堂義仙和尚の木像   宗矩の四男だが側室の子らしい         芳徳寺の第一世住持となっていますが素行に難があり追い出されたとかだが真偽は不明     中央にいたのは 沢庵宗彭和尚の木像                                                           なぜ?と思ったら芳徳寺、開基は柳生宗矩     開山はなんと沢庵宗彭でした          沢庵って京都の大徳寺住持(代表者、住職)なんですね、めっちゃ偉い高僧なんだ                     漫画『バガボンド』で宮本武蔵の心の師匠として武蔵を導いています、バガボンドずくめですね                      武蔵と沢庵の接点は実際に全くなく、吉川英治の小説「宮本武蔵」の創作のようです              (バガボンドはこの小説が原作の漫画)                       しかし住持なのにけっこう諸国を旅歩きしてたな                              作中至る所で武蔵たちの前に現れてた気がします                                                    で、史実の沢庵宗彭のほうは紫衣事件で有名です                                                      1627年、天皇が大徳寺の僧たちに紫衣を与えた事によって幕府と朝廷が確執となった事件です                           紫衣とは紫色の法衣や袈裟で、古くから宗派を問わず天皇が位の高い高僧にのみ授与していたのを徳川幕府が「幕府の許可なく授与することを禁止!」と横槍を入れたわけです        反発した大徳寺の僧は幕府の圧によって流罪となり、住持の沢庵も出羽国に配流されました                後に3代将軍・家光の時代に赦免され                なんと家光の相談役となって江戸、品川東海寺の住持となりそのまま江戸で没しています         どうやら幕府の兵法指南役の宗矩とは江戸での職務の中で関係を持ち、交流があったようですね                                    そして、たくあん漬は沢庵和尚が考案され名前から付けられたと伝えられていますね                                     柳生新陰流の活人剣は沢庵の剣禅一致の教えによるものが大きいようです                               ただ武蔵が柳生の里を訪れたのも創作なんですよね、武蔵の生涯って史実知らなかったため驚き😮                                最後に柳生宗矩の木像           藩主といえど江戸で兵法指南役ですからほとんどここにはいなかったのかな          バガボンドでも登場してないです             柳生家の墓所があるのでこれは行きたい     列堂義仙和尚の墓所                       ネットでは追放されたと(芳徳寺の説明には書いてない)あるからか、列堂義仙和尚は附指定という扱いになっていた、芳徳寺の初代住持なのに          柳生氏一族の墓、これは厳かな空間でした             これは何十基あるだろうか                        まぁ知ってるどこだけ拝みます                     宗矩の墓                    一番大きく中央奥の目立つ場所にありました                 宗厳(石舟斎)の墓                            三厳(十兵衛)の墓      柳生氏の墓所に上泉信綱の供養塔もありました  一族ではないにしても、この菩提寺は宗矩が             父・宗厳(石舟斎)のために建立したわけですから                                            父が師事して継承され、大出世に繋がった新陰流の祖を偲んで代々の藩主が崇拝したのでしょう                         このへんの粋な計らいは良いですね                      宗矩の側室・お藤さんの墓           存じ上げませんが宗矩が通りがかりで一目惚れした町娘?とかのようです                       で、これ❗説明がなかったので不明ですが         亀の石像の上に墓、柳生俊平という6代藩主の墓ですけど数十基ある墓でこの墓だけでした           芳徳寺、行けてよかったです             柳生正木坂剣禅道場               柳生の道場は現在もあるのですね         私も剣道は小中高の12年経験あって合宿などで使用した剣道場に似て昔を思い出しました           近くに自動販売機にベンチという稽古後、道着を着たまま部員同士で会話した記憶がよみがえりますよ          道場の前に建っていた木村篤太郎像               柳生の里まで来たからにはこれを見ずには帰れない、雨も怖いので道標見たからには行きましょう           車は無理だね、別ルートがあるのかな                   体感は芳徳寺から30分ほど、誰とも会わない山城登城している感がありました       天乃石立神社                 本殿を持たない神社で山の中腹にあります        柳生一族の修練の場だったと伝わります           たしかに剣の修行にマッチした自然に囲まれた   心技体を鍛えるに適した空間に感じます          この神社の特徴は巨岩🪨       岩戸から飛んできたと言い伝えられている巨石を御神体としています                         これ画像ではなかなか伝わりにくいやつですが    とんでもない大きさと変わった形状の巨岩です         さらに進むとこれです❗これを見るために来た                                  約7m四方の巨大な花崗岩              綺麗に真っ二つにスライスされています🗡️         修行中の柳生宗厳(石舟斎)が天狗と対決して、一刀両断に断ち切ったら実際にはこの巨岩が割れていたという伝説が残っています              このエピソード、人気アニメの名シーンと似てますよね                              人気アニメ『鬼滅の刃』の名シーンのまさにそれなんですよね、主人公・竈門炭治郎が山で巨岩を斬る修行をしていたが一向に割れず諦めかけていた時に、錆兎という狐のお面をつけた剣士が現れ、彼から特訓を受けることになります                   ボロボロになりながらも最後は錆兎を斬るのですが(実は錆兎は既にこの世の人間ではなく炭治郎の修行の手伝いに一役買った幽霊みたいなもので)無我夢中の炭治郎がなんとか斬ったものは?                                             気がつくと錆兎は消え今まで全く斬れなかった巨岩を真っ二つにたたっ斬っていたのです               

というシーン🪨🗡️             石舟斎が天狗を一刀のもとに斬ったら              それは巨岩だったという伝説とまさに酷似します                                 一刀石の前にはおもちゃの刀の小道具が置いてあり、どうぞ記念撮影してくださいと言わんばかりのおもてなしを感じます                      またこれは後で気づいたのですが一刀石の右後方にこちらを見ている像があったんですよね                       天狗の像が見ているんですよね         むしろ見守っているようです           炭治郎の修行を離れた場所から見守る師匠・鱗滝左近次は天狗のお面をつけています                                                                ここまでくると鬼滅の刃の名シーンのモデルとなったといえるのでしょう                    周囲も鬼滅の刃の山修行のような雰囲気に見え     これはもう鬼滅の刃の聖地巡礼でしょう              しかしフィクション性は置いといて        実際のところ、あの一刀石はどうやって真っ二つに割れたのだろうか…見事な切れ味でしたよ    自然現象の神秘というのは科学や化学をもってしても解き明かされないといいますが。。                       まだまだ行きます     旧柳生藩陣屋跡                             柳生城址碑、筆跡が豪快🗯️      芳徳寺建立後、宗矩が3年の歳月をかけて建てた陣屋跡でその後宗矩の三男・宗冬が増築整備するものの、1747年の火災により全焼し               仮建築のまま明治の廃藩により姿を消しました        現在は切石や井戸跡が残るのみで広々とした公園となっていました       顔出しパネルは宗矩じゃなく石舟斎と十兵衛なんですな(眼帯なし仕様の十兵衛パネル)       鬼みたいな山が見えました、しかし天気ヤバいね                                1987年、当時の皇太子妃殿下と清子内親王殿下が柳生の里を行啓した記念植樹      柳生八坂神社                                    素通りしてしまいましたが、柳生家や先ほどの天乃石立神社とも関係があるようで1654年に社殿を造営したとのこと             こちらでもさくら祭り🌸開催されるようです               柳生四高弟は紹介されてませんでした                漫画や映画でも登場し知名度高いだけに観光PR                       すればもっと集客効果ありそうですけどね                                                                                                                                           旧柳生藩家老屋敷              『柳生石舟斎』や『柳生宗矩(春の坂道)』を書いた作家の山岡荘八氏が1964に所有して移り住み、死去後は奈良市が管理しています           ここに宗矩の顔出しパネルがありましたね     そして側室のお藤さん、お藤さん有名みたいです                      こちらも柳生八坂神社と同じく時間がなく寄りませんでした🙏                時間は11時、柳生の里に着いて2時間弱が経過していました           十兵衛食堂                   天気もヤバいので11時50分のバスに乗ることにします、ちょうど営業開始しました       店内は昭和レトロな雰囲気でノスタルジー漂う地元に愛されて(創業)60年の古き良き食堂の感じ              大河ドラマ『春の坂道』(柳生十兵衛が主人公)   当時の写真やサイン色紙が飾られていました     皇太子妃殿下訪問の写真もありましたね                                                  ここ行ってよかったです      十兵衛定食だったかな(1,350円)       地元の山芋や山菜を取り入れたとろろうどんに        三元豚の親子丼、漬物もアクセントきいて最高でした、やっぱりこういう食堂は美味いんだなぁ                        出たらもう雨が降り始めてましたね…       これは1日中厳しいやつかもねぇ…      バス停は食堂のほぼ目の前なので一服🚬して乗り込みます      芳徳寺の御城印、インターホン押してお願いしました、柳生城の御城印はないようです

わずか2時間半のみの滞在でしたが            人里離れた山あいの奈良市の僻地(小さな里)から                        徳川将軍の兵法指南役が輩出された剣豪の里には、戦乱の時代に翻弄されながらも剣の道を研鑽し剣禅一如(剣術と禅の合一)を育む自然豊かな土壌が柳生の地にはありました                 

ここは一生忘れないでしょうね           

柳生城(芳徳寺)                             ◯交通アクセス                             JR「奈良駅」、近鉄線「近鉄奈良駅」 から奈良交通バス(石打・柳生・邑地中村行) 50分   「柳生バス停」下車徒歩20分 

                                                                                   

番外編🏯筒井城(2026.3/24選定外名城㉕・奈良県)

本日、高市首相が中東情勢に関する関係閣僚会議や閣議に出席し、その後マレーシア(アンワル首相)、フィリピン(マルコス大統領)と相次いで電話会談を実施しました                                 対中姿勢を強めつつ米国との同盟を軸としながらも中国は日本にとって最大貿易相手国                            高市首相のどちらか一方に明確に加担せず、天秤に掛けるような態度に日和見主義と指摘されています                     日和見主義は「オポチュニズム」ともいい                また「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」という故事が由来の慣用句にも言い換えられます                       その代名詞の逸話が残る大名がいます      そして高市首相の出生地という奇妙な繋がり     

       筒井城                     戦国大和の覇者・筒井氏が治めた湿地帯を活かした奈良盆地最大級の中世城郭

      国道25号線をひたすら直進して大和郡山市に入る                       中宮寺跡からちょいちょい拠点取りに回り道しながらもけっこう歩いてきましたよ💦                                この近畿地方のご当地武将の城趾が目的地です      朝からまんじゅうと団子しか食べてなくて腹が減ってたところで25号線沿いでマックを見つけてしまいポテト🍟購入                   大和郡山市に入ってだいぶ住宅地エリアに入りましたね          近鉄バファローズの遺構がありました       元阪神の北川の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打で近鉄が優勝したのも25年も前ですか⚾                             その近鉄線、大和郡山市の筒井町にある筒井駅             地名や駅名にもなってるんですね〜       戦国史、信長の野望ファンなら知名度の高い筒井氏、筆頭は筒井順慶でしょう          筒井氏は古くから大和国に土着した興福寺一乗院の衆徒です                 仏教国とも言われる大和国は鎌倉・室町時代から大寺社の興福寺の力が強く、幕府も守護大名を置いていなかったようで、その背景には興福寺がその役割を担っていて大和国は僧兵による寺社支配でした                     本日は新興勢力・松永久秀の信貴山城と南北朝時代から続く名家・筒井順慶の戦国大和国ライバル同士の居城巡りとなりますね                 筒井城跡は筒井駅から徒歩10分です       駅からの道のり、迷います🙄          グーグルナビでは到着といってるのに着いてない                       この住宅の間の細い道だったんですよね〜      この道行っていいのかな?となりますが        細道を抜けるとまず城趾碑がありますから                 筒井順慶城趾碑                              フィールドで順慶がバンバン迎えてくれます                      筒井城は信貴山城と同じく200名城に選定されていません、しかし信貴山城と同じく古戦場跡として【出陣】に登録されているんですよね         久秀と順慶、ほんまにライバルやな            城趾は畑…いや空き地になってました      一本道を突き抜けて周囲を見渡しましたが遺構と思える箇所は特にありません      説明板はありました、発掘調査で井戸は発見したんですね    全域は東西約500m、南北約400mの「惣構え」構造の規模か、さっきの細道はクランク型の虎口だったようです          筒井城は1429年に筒井順覚によって築城      以後、筒井氏の居城として栄えます                         1546年、筒井順昭が越智氏を攻めて傘下におさめ、大和一国をほぼ手中に収めます                    筒井氏は全盛期を迎えますがまだ2歳の子(順慶)を残したまま病死してしまいます            元の木阿弥(もとのもくあみ)                                 順昭は死の直前、幼い跡継ぎの子・順慶が成長するまでの数年間、自身の死を伏せて順昭の館の近くに住んでいた琴の名手で顔から年齢、声まで順昭と瓜二つの盲目の法師・木阿弥を影武者(替え玉)に立てました(でも盲目じゃバレるやろ…)                            木阿弥は順昭の遺言通りに影武者を全うして    無事にこの極秘任務を果たして、その後は以前の法師(元の木阿弥)に戻ったといいます      現代だと「元の鞘に収まる」と使ったりしますね                                でも元の木阿弥という故事もなぜか知ってますわ                                    知っててもこの逸話からってのは知らなかった                               近鉄奈良駅付近で偶然、この看板を発見しました          1559年、その大和国へ進軍してきたのが                     室町幕府の実権を掌握した三好長慶が重臣の松永久秀ですね、木阿弥による影武者の努力も虚しく筒井城は奪われてしまいます       筒井順慶って信長の野望、皆勤なんですなぁ              2歳で父・順昭を亡くし家督を継承した順慶          幼くして戦乱に巻き込まれ、自分の居住区も奪われ、物覚えつく頃には一番最初に戦国大名としての自我が芽生えたことでしょう                                        順慶は領地を逃れるも約10年間にわたり久秀と戦い続け、1571年の「辰市城の戦い」で念願の勝利で居城を奪還することになります                           三好三人衆って久秀と手を組み将軍・足利義輝公を暗殺しては権力闘争の末に決裂して東大寺大仏殿の戦いを起こす(大仏殿の焼失)など大和国内で抗争しまくるんですよね                昔から大和国に住む者からしたら土地が戦場と化して荒廃していくのは、たまったものじゃないですよね                                                   応仁の乱以降、将軍の権威が失墜する中       畿内(大和含む山城、摂津、河内、和泉)全体で         侵略者たちによる武力行使の支配が先行して主導権争いが激化した下剋上の最前線でした             1568年信長は足利義昭を奉じて上洛       久秀はいち早く信長に臣従して後ろ盾を得ると筒井城を再度奪います                      足利義栄を次期将軍に推す三好三人衆は織田軍と戦いますが、敗れて京から阿波へ逃亡します                                                    順慶は当初、三好三人衆と組んで久秀と対立していたため反信長勢力でしたが、将軍となった足利義昭の庇護を受け、筒井城を奪還します              これを機に筒井氏も信長に臣従します                  ここから2人の信長家臣としてのポスト大和国争いに転じるわけです                         筒井順慶というと私には大河『麒麟がくる』での駿河太郎の印象が強いですね         笑福亭鶴瓶の息子というのもこの時知りました   『龍馬伝』にも出演してたようだが全く記憶にない、素晴らしい役者さんでした                 作中では浅井・朝倉との決戦を前に明智光秀は織田軍に鉄砲が必要となって堺の豪商・今井宗久を訪ねると先客がいてそれが筒井順慶でした                    順慶は交渉を先に譲るかわりに信長に臣従したいから紹介してほしい…となって光秀の仲介によって織田家家臣(光秀の与力)となりました              2人は織田家家臣となりますが、信長が義昭と仲違いして対立した際に、義昭の檄文によって諸大名らが信長包囲網を形成すると久秀は裏切ります                      結果的に信長はこの苦難を乗り越えて久秀を許すのですがこれが大きかったか、その後に大和守護を順慶に任命するのです                            《本日午前中に登城した信貴山城》                  順慶は1577年再び反旗を翻した久秀を織田軍と                                  共に信貴山城で立て籠る久秀を攻め滅ぼして                     事実上の大和国の国主となりました                まぁポジションは光秀の与力のままでしたが大和国の支配権は認められました         大河『麒麟がくる』左(筒井順慶・演:駿河太郎)と                         中央(明智光秀・演:長谷川博己)                                         中国地方の秀吉への援軍でも順慶は同行して     光秀からの評価も上げていきます               そして1582年6月、本能寺の変ですね              織田信長(演:染谷将太)に対して光秀、日本史上最大のクーデターを起こしました        光秀は本能寺の変後、順慶に味方になるよう書状を出していますが静観しています               信長横死の知らせを聞き、織田家臣で瞬時に動いたのが秀吉ですね(中国大返しです)        2人は山崎の合戦で相まみえますが畿内に自領を置く順慶はすぐにでも参戦できる洞ヶ峠にいるもなかなか動けません                      光秀か、秀吉か、どちらにつくか示せない順慶は静観して中立を取り、日和見してしまいました                                                        このなかなか決断できない優柔不断な態度を         「洞ヶ峠を決め込む」といい曖昧な姿勢の慣用句の代名詞として有名です                                                           結果的に現状維持に終わった「元の木阿弥」       優柔不断で決断が出来ない様の「洞ヶ峠を決め込む」も保守的なイメージの故事ですが           「奈良の寝倒れ」という言葉があるように           それが奈良県民のおっとりした温和な性格傾向なのかもしれませんね              そう思うとガサツで気の強い関西圏の中で奈良県は異質な生活意識といえよう          こちらが外堀ですね                            順慶が川の氾濫から城を守るため整備した順慶堤                                                                                    筒井城は久秀の滅亡後、順慶は多聞山城の石を転用して城郭の拡張を行ったが1580年、信長の一国破城令(後の一国一城方針の先駆け)によって破却となり、順慶は同年築城した大和郡山城を居城に移します                            時系列的には筒井城廃城後、大和郡山城に移った2年後に本能寺の変なわけですね                  そしてその2年後の1584年に順慶も36歳の若さで病死してしまいます(筒井氏の当主は短命😔)                    筒井氏はその後、1585年に秀吉政権下で大和郡山から伊賀上野20万石に移封します                     当主は養嗣子で従弟の筒井定次が継ぎ      関ヶ原合戦で東軍に与したことで本領は安堵    定次は伊賀上野藩を立藩しますが1608年に起こったお家騒動で改易、後に定次は切腹して    大名としての筒井氏は滅亡しました             《2024.4月登城の伊賀上野城》         伊賀上野藩はこの筒井定次が最初で最後の藩主で改易後は伊賀上野藩は伊勢津藩に取り込まれ   伊賀国は伊勢津藩主・藤堂高虎が領有しました          筒井駅、近鉄橿原線に乗ります                               戦国時代を生き残り、泰平の世の江戸時代に入っても大名家として生き残るのは難しいですね     城巡りで藩史を見学するたび幾度もお取潰となった大名家を見てきましたが過去も現代も諸行無常だと感じました                            高市早苗首相は奈良県大和郡山市生まれ           地元選挙区事務所も筒井町にあります                                  保守的な日和見外交はその県民性か                                                                                 政治経済に詳しくないので適当な発言はできませんが…どうする日本、どうする高市                  お願いします🙏サナエノミクス❗                             気づけばもう17時過ぎていました、本日も歩いた             近鉄郡山駅着、一駅でしたが意外と距離あったので徒歩はやめました                    近鉄郡山駅はもう藍色装飾の豊臣一色       家紋の五七桐が鮮やかです😆😆😆                  今年の大河『豊臣兄弟❗』の観光PRは万全💨   1585年、筒井定次が伊賀上野に移封した後に大和国に入ったのが豊臣秀吉の弟にして今大河主人公・豊臣秀長です                     一番の目的がこの秀長の居城・大和郡山城でしたから最寄り駅は活性化がさすがですね〜😛      しかし今日のところは郡山城には行きません       そもそも17時で閉館していますので行ったところで…です                           外堀緑地だけ少し寄り道しました                         いろいろ楽しみな大和郡山           大和郡山城は26日、最終日に行きます         近鉄郡山駅から徒歩15分ほど、郡山駅へ          JR関西本線(大和路線)、本日何回乗ったかな          JR奈良駅着、お雛様が飾られていました           そしてやっぱり奈良駅は飛鳥色より戦国色より    外国人向け観光色が一層増しました              まず奈良公園(鹿)と大仏がありますから              英字のラーメンマップを手に取る私も観光客です           おぉ〜、ターミナルはさっすがの広さですね        郡山駅と奈良駅はJRと近鉄線の駅が互いにあり               どちらも歩いて行けます、今回の宿泊先は近鉄奈良駅が最寄りのため少し街の風景見ながら夕食にありつこうと思います                  本日はマックポテトで凌いで腹減ってたので    奈良といえば❗で私が一番に思いついたのが   天理ラーメンです(天スタって言うのですね〜)          天理スタミナラーメン+チャーハン(1,300円)     美味かった、空腹だけに。辛旨ですね🍜           近鉄奈良駅                   石灯籠が良い味を出してます        閉店ギリギリのラスト大仏いちご大福を購入🍓           ドミトリー到着、2泊してここを起点にします   1泊3,500円、シャワーと寝るためだけに利用しましたが、ここ快適でしたね      共用スペースが2箇所あり、ウォーターサーバーもありました(くつろげるソファーも)                      2日間、早朝と夜は予定表のチェックやパンフ、御城印などの整理に使わせて頂きました         大福とイチゴの組み合わせって言い表せない味                                 明日からは奈良市内での探訪がメインになります         

筒井城                      ◯交通アクセス                                近鉄橿原線「筒井駅」から徒歩10分 

 

番外編🛕法隆寺(2026.3/24観光名所52・奈良県)

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 by正岡子規       

柿の甘酸っぱい味と、静寂の中に響く法隆寺の鐘の音による、「秋」の奈良の情景を鮮明に感じる俳句です

     法隆寺                     飛鳥時代の息吹を伝える世界最古の木造建築群         姫路城とともに日本初の世界文化遺産指定された国宝の宝庫

            法隆寺駅着、観光ツアー団体もいて賑やかです        さすが世界遺産ですね    法隆寺といえばこの国宝が立ち並ぶ名刹            中学校の修学旅行で奈良京都に行って東大寺の大仏や鹿は記憶ありますが法隆寺は覚えていない            法隆寺は奈良県生駒郡斑鳩町にあります        東大寺や奈良駅からは離れてるんですよね                 生駒郡斑鳩町は江戸時代には賤ケ岳七本槍の一人、片桐且元が治めた地になります                              片桐且元というと豊臣家と徳川家との板挟みにあったストレス地獄の家老(過労💦)                  大河『真田丸』(演:小林隆さん)では後半で常にお腹をおさえてたり寝小便をしてしまったり😔                                                        最後は苦悩の末に大坂の陣を前に大坂城を退去しました、以降の話は知らなかったのですが                  どうやら且元は奈良県とゆかりがあったようです                                                                           豊臣秀頼の家老時代に1600年〜1606年にかけて「法隆寺の慶長大修理」の総奉行を務めました                                                                                    豊臣家の財政支援のもとで伽藍全体の修復を主導し、法隆寺の存続に大きく貢献したようです   大坂の陣後は家康から大和国平群郡・添下郡(現在の斑鳩町など)に2万8千石を拝領して竜田藩を立藩しています               勉強不足、まさかの片桐且元でした                                                         法隆寺のカラーマンホール            至る所にありました

      ポケモンのマンホール              キャラクターは知りませんがたくさんありました                      全て法隆寺駅から法隆寺に向かう道中にあります            途中に見たサッカーショップ          ドーハの悲劇とかの時代ですよね    雄大な松並木が続く広い並木道の参道を歩く    陽が頭上に昇り、少し体感は暑さを感じます                   南大門                     法隆寺の玄関にあたる総門          かつて中門近くにあり、寺院の拡張に伴い移設されましたが室町時代の1435年焼失、1438年に再建されました     西院伽藍に入ります(伽藍とは僧侶たちが集まって仏道を修行する、清浄閑静な場所のこと)                    もはやこういう手水舎や道標も風情を感じます   長い歴史の中で片桐且元も修復に携わった伽藍            法隆寺は607年に聖徳太子が創建した世界最古の木造建築群を有する聖徳宗総本山です           もともと前身の斑鳩寺が聖徳太子の死後に焼失してしまい、後に再建されて法隆寺となりました                                      聖徳宗(しょうとくしゅう)は、聖徳太子の和の精神を根本として法隆寺を拠点に仏教の教学や文化の保存・伝承を行っています                                                   1993年に姫路城とともに日本初の世界文化遺産                                           0知識で来たけど、奈良は聖徳太子ゆかりの地が多いですね(聖徳太子が生きた飛鳥時代の中心が奈良なので当たり前ですけども)                             聖徳太子というと推古天皇の摂政をつとめ、一度に十人の声を聞き分けるなどの伝説で有名ですね                                   漫画『中間管理録トネガワ』でもこのツッコミで黒服たちを爆笑させてるほど認知されています                                              また冠位十二階、十七条憲法、遣隋使派遣など天皇中心の中央集権国家体制に尽力しました      日本最初の世界文化遺産は聖徳太子の文化の結晶だったんですね           中門                   西院伽藍の本来の入口となる門です        正面が四間二戸と入口が二つある形が特徴             門の中央に柱が来るのは怨霊封じという説があります                                                 日本最古の仁王像                門の左右には、711年に造られた日本最古の金剛力士像(仁王像)が安置されています      最初の黒色の吽形像と朱色の阿形像がです           1,300年前の仁王像、塑像(土を塗り固めた像)は長い年月、雨風にさらされたため何度も修復され、吽形像の体部は木造に補修されています      拝観料は2,000円、驚きました                          今まで行った寺社で一番高かったが、さすが世界遺産ですわ                            五重塔                                         境内に入るといきなり現れるのは約31.5mの高さを持つ日本最古の五重塔                                      5層の屋根が上にいくほど幅が小さくなっていく優美な姿、1,300年前の日本の建築技術に驚かされます      獅子?のような動物か鬼?が裳階の上で支えてました                                     外観はOKですが内部の撮影はNGでしたが      安定感のある構造と現代の耐震技術に通じる心柱が塔の中心を貫いており、免震構造によって倒れないようになっています              地震が起きても横揺れはするけどその力を心柱が吸収して倒れない構造です            また、塔の地下にはお釈迦様の遺骨が眠るとされています      金堂                     五重塔と並ぶ金堂、こちらも現存する1,300年前の木造建築です                       内部(撮影NG)には鞍作止利(くらつくりのとり)作の釈迦三尊像(薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来)をはじめ、飛鳥・奈良・鎌倉時代の貴重な仏像や、再現された壁画が安置されていました              金堂の裳階には龍が      大講堂                    925年に焼失があり990年再建の平安時代の木造建築、こちらも五重塔や金堂と並び国宝です         僧侶たちが仏教を学び研鑽や修行をしたり     法要を営む場所として建立されました    ここは規模が大きく広かったですね       聖霊院、御朱印(500円)はこちらで頂けます      御本尊の聖徳太子像も安置されています      秘仏本尊で特別な日でしか見れないようです残念           大宝蔵院へ       手入れが行き届いててさすがですね      1998年建設の大宝蔵院は法隆寺に伝わる数々の貴重な寺宝を収蔵・展示されています                   百済観音像、玉虫厨子、夢違観音像といずれも国宝で撮影NGのためその目に焼き付けました          百済観音像の前で賽銭用意して手が滑って財布の小銭を全て床にぶちまかした兄ちゃんがいて        付近にいたみんなで協力して拾い上げてる光景を見て、全員に百済観音像から良いことあるようにと願いました                   東大門                     西院と東院の間に建つ「中ノ門」とも呼ばれる国宝の門、今まで見てきたエリアは全て西院伽藍だったのですね〜広すぎるぞ法隆寺            一直線で東院伽藍に繋がります(なんで壁の写真しか撮ってなかったんだろう。。)       たしか土産屋などの出店がありましたね                            夢殿                       聖徳太子の宮跡、こちらが東院伽藍エリアですね            宝珠が印象的な八角円堂で東院の本堂です          もちのろんで国宝です、739年頃に聖徳太子が居住していた斑鳩宮の跡地に太子供養のため建立しました                           堂内には、古くから聖徳太子の化身(生まれ変わり)とされる救世観音菩薩が安置されています                        その信仰は、平安時代以降に四天王寺を中心に広まりました                 長らく秘仏として守られていましたが現在は毎年、春と秋に救世観音菩薩の特別開扉が行われています(春は例年4/11からだって。惜しいなぁ)            絵殿・舎利殿        中宮寺                     ここは僧寺ではなく女性の僧侶が住む尼寺  聖徳太子が母のために創建したと伝わります                      画像の御本尊の菩薩半跏思惟像(国宝)は、モナリザ・スフィンクスと並ぶ世界三大微笑像と言われているようです                      飛鳥時代特有の「アルカイックスマイル」ですね                                                             しかし、ここで見られるのはそのレプリカで       本物は本堂に厳重に安置されています              中宮寺は国宝ではなく別料金なのと、レプリカなので行きませんでした       法隆寺、境内はかなり広くて驚きました      こ東院伽藍から東に出て法隆寺から退場します                東に歩いていきます       中宮寺跡                   実はここが中宮寺が最初に創建された場所です         現在の中宮寺(法隆寺にある)から400m東方に位置します                           現在は史跡中宮寺跡歴史公園        広大な伽藍があったんですね       金堂跡や三重塔跡もありました            発掘調査の結果、敷地の南半分が塔で北半分が金堂の基壇とわかったようです           貴重な飛鳥時代創建の寺院であることから、国の史跡に指定されています            中宮寺(東院伽藍エリア)にも塔と金堂があったんですね、1309年と1311年に火災で焼失により衰微して16世紀前半に法隆寺に移転しました                    公園内には基壇が復元され、当時の柱位置に模造の礎石が置かれています        この畑は秋頃にはコスモスが咲き誇るようです   ここに現存していたら中宮寺も国宝でしたね     でも国宝のオンパレードでお腹いっぱいです🥰            この辺りは田園風景が広がり空気がとても美味かった、それではここからまた歩き出しまする      

法隆寺                     ◯交通アクセス                 JR関西本線(大和路線) 「法隆寺駅」徒歩約20分                                                 「法隆寺駅前」バス停(南口)から奈良交通バス「法隆寺門前」行に乗り「法隆寺参道」または終点「法隆寺門前」下車、徒歩5分