今回予定登城3城のうち2城が山城。なので2日目はインターバル。前日の疲れもあり今日は平地ウォーキングで平城です
高田城
徳川家と豊臣家の最終決戦を前に、名だたる大名たちが急ピッチで築いた天下普請の土塁の城
戦国史としては一般的に新潟県=越後国=上杉ですがこの城は上杉氏には無関係です
上杉氏は関ヶ原合戦後、山形県の米沢に転封されますのでその後、堀氏(居城は直江津にあった福嶋城で内紛により御家取り潰し)を経て越後の中心を高田に移して築城された徳川の城になります
本日も晴天ナリ!高田城アクセスは電車もバスも利用しない、ホテルから徒歩20分の好立地ということで余裕かまして出発は11時頃でした
なのでゆっくりウォーキングしながら高田駅周辺で【出陣】をプレイ
この時期は酷暑ですが新潟県は豪雪地帯
雪や雨を防ぐための軒先つきの通路として街並みは雁木造りという雪や雨の日でも通行機能を確保するため、建物の庇を長く張り出して下を通路として歩けるよう作られています
まさに雪国の知恵ですね、ドア開閉時の歩行者との事故や積雪で開かないなどにならないよう玄関のドアも開き戸より引き戸のほうが多かったと思います、私はこれ私有地だから立ち入りしては(通っては)いけないと思って車道寄りの道を歩いてました
歩いてたらさっそくすごいとこ見つけましたよ
日本最古の映画館、このパワーワードだけで足止まりますよね。すごい。。1911年に開館か。。
現在上映中の新作映画わからないですけど最近のラインナップと違いますよね、ここはマニアックというか映画好きのオールドファン層が支えてるのか?奥に当時の機材が見えますね、1911年というと明治時代です
余談ですが新選組の永倉新八は明治維新後も長生きして77歳まで生き、晩年の趣味は孫を連れて映画鑑賞だったらしい。
「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と生前に語ったとのこと。
写真の伝来には間に合った世代なので近藤、土方ともに写真は残っているが2人の死後40年を生きた永倉にとってこの写真が動く文明の発展にはさぞ驚いたことでしょう。ここに足を運んだかは不明ですが永倉が映画鑑賞してた同時期にここでも上映していたと思うとすごいですよね。
(そういえば最近YouTubeで坂本龍馬や福沢諭吉など偉人たちの写真を動かした動画がありましたね、あれは驚いた)
ちょうど地元の方が自転車を止めてチラシフライヤーを見て持ち帰ってました、私は中には入らなかったので興味ある方は館内の画像を検索してみてください
恒例のマンホールです。市の花である桜と高田公園の蓮の花に泳いでる白鳥と黒鳥の上越市マンホール!
高田公園の桜は日本三大夜桜の一つ。上野恩賜公園(東京都台東区)と弘前公園(青森県弘前市)、そして「高田公園」(新潟県上越市)のようで高田公園はあまり普遍的ではないと思う。
三大◯◯(怒り心党ではなく)って3つ目が出てこないことありますよね、おそらくこの三大夜桜でも高田公園は3つ目なのだと思うがそれは超メジャーの上野と地方都市の弘前が強いせいだろう
野村義男的な立ち位置、しかし選定されてるだけあって春には約4000本の桜が咲き誇る圧巻の美景とのこと。来る時期ミスったかな
蓮もすごかったですよ
高田城、北側からグルっと回り込んで入城(東側は現在工事してて入城できない)しましたが意外に時間がかかったのは広大な水堀が公園全体を囲んでたからですね、非常に大きな城郭だったかと。船で漕いだらジャングルクルーズみたい
極楽橋から入城、ここは高田城址公園として散歩やジョギングコースとして市民の憩いの場となってます
極楽橋から入城すると早くも右手に見えます
正面からだとこんな感じ。桜の木がね。木ちょっと。。これ。。
徳川と豊臣の抗争が激化する中で、1610年に高田に入封したのが徳川家康の六男の松平忠輝
松平忠輝って私の記憶では器量が悪く家康にめちゃくちゃ嫌われてた印象がありますね
忠輝は、前の領主である堀氏が築いた(水害が受けやすいと言われた)福島城を廃して中心を高田に移すと天下普請(幕府の命による工事)により高田城の築城を開始、世の中は豊臣政権から徳川政権へと移り行く転換期にあたり、反徳川勢力となる西の加賀・前田家や東の出羽・上杉家の牽制役を担いました
越後の支配は上杉氏(現在の春日山にあった春日山城)→堀氏(現在の直江津にあった福島城)→松平氏(現在の高田にあった高田城)と移り変わっていくのです
工事には徳川の命を受け陣頭指揮をしたのが伊達政宗(政宗は忠輝の舅にあたる(忠輝の正室の父)ですよね)そして13もの外様大名が動員されました。
かつて豊臣方だった大名たちが高田城のために私財を投じ、徳川の味方であることを示したのです。築城期間は異例の4ヵ月、各藩から集まった技術者や労働者は計5~10万人ともいわれ、国をあげての築城プロジェクトとして行われた天下普請でした
ただし大阪冬の陣を目前に豊臣家との決戦間近にて完成を急ぐ必要があったため平城の高田城は天守も石垣もありませんでした、土塁をめぐらして建築されたのです
耐震が悪かったかは不明ですが高田城は三度の大地震と度重なる大火に修復しては見舞われ、1871年には廃城して陸軍の駐屯地となりました。その後二の丸・三の丸の土塁は撤去され、堀の一部も埋められてしまいましたが1993年に多くの市民からの要望に応え、上越市発足20周年記念事業としてこの高田城三重櫓が再建されました
入城料は310円です
最初にパネル展示などがあり、このジオラマ模型があります、これは相当な巨大城郭だったことが伺えます。また写真左は映像資料で春日山城、福島城との三城物語が観れます。(もちろんメインは高田城です(約10分弱だったかな))
パネル資料も豊富でした
出土品も展示されてます
現在、新潟県の主要都市は新潟市、長岡市、上越市です。開府400年を迎えたこの高田の地には、今も城下町の風情を残す町家がたくさんあります、上越市の発展はこの高田を中心としたことがわかります
さて、三重櫓を後にすると目の前に高田城三重櫓管理棟があり、ここがスタンプ設置場所です
中は上越市PR動画が繰り返し流れてます、冷房が生き返るほど効きまくっています
高田城を築城した初代藩主の松平忠輝ですが築城の1年後の大坂夏の陣での不手際(諸説あり)を理由に、兄である徳川秀忠によって改易されてしまいます
その後は7家、17人の城主が目まぐるしく入れ替わります。骨肉の争いで有名な家督相続の越後騒動も起きてるように高田藩は領地経営が安定しなかったようですね
また藩主は改革を求められて高田に移封してきたわけではなく幕府に怒りを買ったり懲罰的な意味合いで左遷先としての扱いを受けていたようです、これは治安は悪くなりますね
で、関係ないですが東京は小池都知事がもう3期目ですよ、始球式で膝関節を骨折してましたが72歳、本当に大丈夫なのだろうか。外国人の移民受け入れた先の日本には治安低下が懸念されます
高田藩、幕末の頃ですが徳川四天王の榊原康政の直系の家柄が1741年に入封(幕府に咎められ左遷されてきて)以来、130年にわたり榊原氏が高田藩主を務めてました。
もちろん当初は幕府側で長州征伐にも幕府軍として参陣してましたがまさかの敗戦。新政府軍(薩長)の兵備、兵制力に圧倒されてしまいます。
ここで高田藩は情勢を感じ幕府に見切りをつけたのか、130年前の処遇の遺恨か、北越戊辰戦争では越後諸藩の中では比較的早く新政府軍に恭順することで長岡や会津攻めの先鋒となり大きく貢献しました。
高田藩と長岡藩は越後有力諸藩同士、目前まで迫ってきた新政府軍に恭順するか、または東北諸藩からの列藩同盟の加盟要請を受けるかの狭間にいたわけで、最終的に新政府軍の先鋒隊となった高田藩と奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩の越後諸藩同士で戦うまでの経緯は板挟みによる苦渋の決断が生々しい。
徳川親藩、譜代が治めてきた高田藩でしたが結果的に街が戦火になることは免れました
帰る途中、惣菜屋を発見
ここ鬼のように安かったですね、手間がかかるポテサラまで品揃えされてありがたい。こういう時のドリンクはサンガリアやポッカなど普段見ない飲料に手を出してしまいます
ホテルでゆっくりして夕飯は宝来軒総本店
トクつけ麺大盛り&チャーシューご飯、これは本当に大盛りで驚いた。地元の学生もたくさんいて人気ラーメン店のようですね
実は今回登城した高田城、登城したのは11日ですが前日の鮫ヶ尾城のあとホテルから夜に高田城へ外観だけ撮りに行きました
事前に休館日や営業時間を調べてたら10日まで『黄金色ライトアップ』と記載されてたので滑り込みで間に合いました
実際、黄緑色でしたが写真だと緑ですね、時間は20時頃でしたがほとんど人はいません、公園内をショートカットして帰路につく人とすれ違うくらいでほぼ私だけでした、しかし猛暑日の夜の公園は気持ち良いです
20時だというのにほんとに暗かったですね、外灯より通る車のライトが頼りでした。
高田駅の駅舎、高田城城下町をイメージとのこと、城がある最寄り駅は駅舎も味があっていいんですよね。
駅から続くメインストリート。この通りは栄えてました。ご飯だけを食べる店が少なく、居酒屋メインでしたね。こちらもアーケードが雪から歩道を守る役目を果たしてます。冬じゃないので体感してませんが、、雁木(がんぎ)!!覚えました!
積雪時の雁木通りを歩いて厳冬を感じるもよし
日本三大夜桜を見て春の訪れを感じるもよし
上越市、ご飯を食べる店が少なかったけど趣や風情があって街自体は好きでした
高田城
・スタンプ設置場所
高田城三重櫓管理棟
・交通アクセス
えちごトキめき鉄道・妙高はねうまライン「高田駅」から徒歩30分