六文銭で城巡り

やるなら今しかねぇ、やるなら今しかねぇ

第40登城🏯春日山城(2024.9/12日本名城32新潟県)

ついに40登城!大阪城から早1年。なんなら2月から半年程で怒涛の39城巡りでした、既にたくさんの思い出があります

200名🏯のうち1/5を攻略、しかし小谷城や鎌刃城、杉山城などの山城は日没や悪天候により断念、登城口の入口までで引き返し、資料館でスタンプのみと実際に登城してはいないので私の脳内では賛否両論ですが。

とりあえず関東、東北、甲信越は順次登城している状況、もっと西に行かないとなのですけどね。

 

春日山城

義に生きた戦国最後の軍神、越後の龍・上杉謙信の居城で複雑な自然の地形を利用した堅固な城塞

 

武田信玄の城巡り、川中島古戦場跡と巡り、ついに来ました春日山城

起床したのが11時頃でした、実はこの日は13時から【出陣】のメンテナンスがあり5時間もプレイが出来ないとのことで春日山城登録と上杉謙信をゲット出来なくなるため(18時から山城は怖い)ダッシュで準備して高田駅に向かい、タクシー利用で春日山城へ行きました💦

城巡り開始して初のタクシー利用です、予算を抑制して巡ることを掲げてるにも関わらず夜遊び&タクシー利用はアホですね

【出陣】を始めたのが山梨(新府城)の城巡り時期からなのでそれから約4ヶ月半、城巡りと同じく取り憑かれています💦(いずれは飽きがくるのでしょうけど、、)

まずはスタンプ設置場所へ

春日山城跡ものがたり館(無料)です。上杉謙信公や、当時の春日山城の様子などを大型画面のビデオで紹介しているほか、川中島合戦図屏風などを展示しているとのこと。

また春日山城史跡広場では、調査によって確認できた土塁や監物堀、道、堀立柱建物などが復元され、中世の春日山城を体感できるとのこと。

また監物堀に植えられたカキツバタは、5月上旬が見頃らしい

う〜ん、行きたかったですね😢

スタンプ押印、滞在時間30秒

林泉寺

謙信の祖父が父の十七回忌法要を営むために1497年に創建した林泉寺

謙信はここで7~14歳までを過ごしました、戦国武将の中でも教養が高く、信仰心が厚い謙信の素養はこの時期に培われ、後の謙信の名前もここの名僧から拝領したといわれています

ちなみに謙信はもともと越後の守護代長尾家の当主で(長尾景虎という名でした)上杉姓は北条に敗れて頼ってきた上杉憲政を庇護して関東管領職を譲られ、養子入りして上杉と名乗ってます、義に厚い謙信は14回も関東出兵して北条と合戦を繰り広げます。

領土を取りに行くわけでもなく戦力を削って相手の領土拡大を抑えることで結果的に関東甲信越の情勢は保たれ、その間の信長の飛躍に一役買った面もあったと思います

米沢にある林泉寺は、ここ越後の春日山から米沢(景勝の代で関ヶ原合戦にて負けて米沢に転封された)上杉家の菩提寺なのでこの林泉寺にはその前の代である謙信と謙信の父と祖父の墓所川中島戦死者の供養塔などがあります(謙信の墓所は他にもありますがやはり春日山城の麓にあるこの林泉寺でしょう)

米沢の林泉寺は米沢城登城日の夜に行きましたね、真っ暗で怖かったのを覚えてます

ここも滞在時間30秒、タクシー待たせてるので残念

 

春日山神社の駐車場に到着、タクシーを降ります。既にここ春日山城の中腹あたりなので本来のウォーキングを端折って相当ワープした形です💦

春日山神社は米沢にある上杉神社より分霊され、明治34年(1901)に創建、上杉謙信公が祭神に祀られています

高台に銅像見えますね

上杉謙信公の銅像、1969年の大河『天と地と』の放映記念に建立、上越市の守り神として50年以上も見守っています。離れているため拡大してますが私のスマホとデジカメ、画質低いのでわかりにくいですが謙信の目は見開いてます。

 

自販機もテンションを上げさせますね!

さて春日山城案内図。。険峻ですね

ルート的には春日山神社(右回り)もしくは謙信の銅像から左回りのどちらか?ってとこでしょうね

三の丸→二の丸→本丸と攻めたいので銅像を見て左から登っていきますか

いきなり見渡す限り、山・山・山・山です⛰️

でけー山城だ

案内板が所々に、また分岐点にしっかり表示されてるため迷いようがないですね〜。

甘粕景持の屋敷跡

さっそく現れました、家臣の屋敷跡がたくさんあると書いてあったので屋敷跡巡りも楽しみです

甘粕景持は上杉家一の武の柿崎と双璧で上杉四天王でもあります

今までの山城登城で見てなかったバッタが非常に多く、いきなり目の前をピョンピョン飛んでて踏み潰してしまわないか足元見ながらの登城でした

夏から秋にかけてよく見る虫のようなのでまさにこの時期でしたね

三の丸阯です

謙信の養子の景虎の屋敷跡ですね、景虎に関しては鮫ヶ尾城登城で触れてます

春日山神社までタクシーワープしたから、ここまで来たかぁって感じもしないですね

御館の乱の際、景虎に持ってかれた米蔵

とにかく広大な山城、ただ視界が開けてるため熊が出そうという不安は全くないですね

あの山道から歩いてきただけなのでまだたいして歩いてないです

二の丸阯(11月下旬から一本イチョウが黄金色に輝きます)

他の山城に比べ、さすがは日本名城入りした謙信の居城。めちゃくちゃ整備されて登りやすい

本丸行きたいですが柿崎さんに挨拶してきます

分岐点ではこの形の案内板があり現在地、距離、紹介など大変わかりやすい

柿崎景家の屋敷跡

猛将ですね、史実の柿崎景家は軍事以外にも政治・外交にも優れた重臣だったようです

柿崎さんもここから城下町の景色見てたんすねぇ

【出陣】では一番最初に完凸したSSRであり、近所の茶室で登場して夜にウォーキングがてら小判と交換して友好度を上げたのも柿崎さんが初めてだったので思い入れがあります、能力も高くいまだに一軍部隊に入れてます

柿崎さんありがとうございます、でももう登用札で出てこなくて大丈夫です🙇

柿崎屋敷の案内板の裏に記されたこの桑取道ですが本丸跡を目指すならこれ以上は行かないことをオススメします、本丸跡を真ん中にして柿崎屋敷は西にあり、桑取道はさらに西の反対方向に向かっていきます。4時間近くの7キロアップダウンの山道で往復7時間となるでしょう

そこには当時、上杉謙信の父長尾為景春日山城を築いた際、西方の桑取谷に住む農民たちに扶持(ふち)を与え半農半士の郷士に取りたてて、いざという時の城の守りとしました

桑取衆は、そのことを誇りに思い、春日山城主への忠誠心は厚く、それは謙信の代にいっそう強まっていたのです

大河『天地人』で景虎との戦いで主要道も遮断され兵糧尽きかけて景勝ピンチの時にこの桑取道を直江兼続妻夫木聡)は抜けて桑取衆に助けを求めて米俵を景虎勢に見つからないよう春日山城に運んでました、気にはなりましたが長すぎる。。

なので景勝屋敷へ向かいます

上杉景勝屋敷

謙信の姉の子で義に厚い謙信DNAをしっかり受け継いだ名将です、ゆえに水面下で次々と大名を懐柔していた徳川とは性格的に相容れず西軍に味方したのでしょうね

 

この今にも枯れそうなわずかに紫色の花がカタクリかな?それかムラサキシキブかもしれません

鐘楼跡

非常の際に鐘を鳴らして知らせてた場所ですね

左は二の丸のほうで右は柿崎屋敷のほうですね

見えにくいですが井戸曲輪

どんな渇水でも涸れることなく今でも水をたたえる大井戸、水が湧き出してて驚いた

とにかくバッタが多いです、ハチより蛾よりバッタでした

本丸・天守台に着きました

日本海と頸城平野の眺望が見事!

 

本丸・天守台着いて5分程。残念ながら小雨が降ってきて謙信の気持ちに浸る間もなく早々と下山開始します💦帰りは春日山神社の方向で下山

 

謙信が出陣の際に戦勝を祈願した場所といわれる護摩堂阯、何にも残ってないが私は感じる

息吹を❗️

小雨はすぐ止みましたー

諏訪堂阯、謙信の信仰心から祈願する建造物がこの辺りは多かったようですね

毘沙門堂

謙信は戦の前は中に篭って祈願(座禅して瞑想?)してたという毘沙門堂

ここから毘沙門天の化身と呼ばれてたんですね

誰かが割ったのか1つ穴が開いてるんですよね、撮影はしませんでしたが中に毘沙門像が見えます

御花畑阯なんてのがある!謙信、生涯独身にして戦上手で花好きか!強面硬派俳優にしてスイーツ好きの的場浩司なみのギャップだなー

さらに下ると

直江屋敷

直江といえば大河でも主役となった兼続ですが彼は正室の直江船の婿入りとして樋口姓から直江姓となり直江兼続となった、直江船の父である直江景綱が謙信の祖父からの3代に渡り宿老を務め直江家の地位を固めた重臣なので景綱、婿養子の兼続がどれだけ上杉家から高い信頼があったかがよくわかりますね

そして兼続は子が早世しても生涯側室を持たず、船と仲睦まじく米沢の地に2人で骨を埋めました(米沢の林泉寺墓所がありましたね)

このへんは屋敷に近寄せないために工夫を凝らした防衛がなされてますね

そんな中、突如現れた上杉少弼入道宅址

これ誰のことかわかりませんでした、調べても出てこない、謙信のこと?だとしたらなぜ他の家臣たちより下にあるのか。

他、いろいろありました

春日山神社に無事到着

小さい謙信像がありました

入口の駐車場のとこの高台にいた謙信像と同じ形かな?

手水舎で龍神の口から注がれる水で身を清めて

参拝しました(登城後ですが)

謙信公祭りという祭りがあるのですね、神輿が眠ってました

1.2トン!?

売店にて恒例のソフトクリーム🍦

登城後はなんでも美味いけどコシヒカリコメ粒入りってアクセントが絶妙でした

さて、タクシーで春日山神社まで来たので帰りは大手道を通り歩いて帰ります、教習車が通ったけどここの教習所の公道授業では春日山城があるのかー

 

この時間はもう晴れてたので暑い☀

そしてなぜ大手道から歩いたかというと

あちゃ〜。。西陽で暗いですね😢

ん〜、伊達政宗公騎馬像を思い出す黒さ

全く見えにくい……上杉謙信と言ったら騎馬ですよね、武田も騎馬隊だけど信玄は騎馬のイメージがない、これも川中島の戦いの2人の印象からか

ともあれ、騎馬謙信像を拝むために大手道を通りました(上越妙高駅の謙信騎馬像は青年期の謙信で若いのと猛々しさがなくクオリティも……)

 

上越市埋蔵文化財センター内に騎馬像はあります

ちなみにここ、無料施設なのですが期待せずに入ったらビックリしました

猪いたんか👺、もう登城後ですけど

ちっこい木彫りの謙信、この白頭巾の謙信ポーズは定番なんですね

春日山城ジオラマ。険峻ですねー

日本百名城で上杉謙信の居城ではない山城だったらどこまで整備、手入れされてるだろうか。続百名城でも運営や維持費が難しく案内板やコース内の倒木、沢などの整備がされてない山城も多々あります(コース間違えさえしなければそれはそれで山城らしく戦国当時みたいに険しくて楽しいのですけどね)

龍の床絵、大河『風林火山』で使用されたもの

越後十七将之肖像

謙信の年表が続きます

この体験コンテンツ面白かった、タッチパネルで操作したりクイズもありましたね

三太刀七太刀の跡

川中島合戦の謙信と信玄の一騎討ちの逸話ですね

書状(謙信は筆まめな武将でした)

謙信と同盟破棄して武田と結んだ北条氏政のことを「何も之馬鹿你無申事候」と馬鹿者という言葉を使ってます、この当時からバカってあったんだ。。

 

真偽は不明もけっこうなこと言ってますよね、信長とは1577年の手取川の戦いで(柴田勝家に)勝ってますから説得力ありますね、実際信長は謙信存命の間(1578年没なので1年ですが)は手を出さないよう北陸侵攻を中断しています。三方ヶ原で信玄に徳川が大敗し諦めたのと同様ですね。

謙信と信玄って信長、家康連合にとって脅威だったんですよね。けして景勝や勝頼が無能なことはないですが謙信と信玄は別格な存在ですね

謙信直筆の書を刻んだ「第一義」額

律儀で誠実で義理堅い、義を重んじることファーストの生涯

謙信亡き後の御館の乱の展示もありました

景虎の項目:人質ではなく「養子」として迎え入れた謙信公

謙信も景虎家督を継ぐ兄がいたため幼少期に寺に出家するも家の事情で還俗した経緯や北条氏康との良好な同盟関係もあり初名の景虎を名付けさせて寵愛しました、景勝も景虎もどちらも謙信の養子、後継者を悩みあぐねてる最中の急死だったのでしょうね

こちらの映像ではご当地おもてなし武将隊の方々が春日山城の見どころを紹介しています、登城前に先にこちらに来たら観たほうが楽しみが増えるかと思います

この状態で700年前の焼き物とか残ってるんですね、すごいですよね

ここ来てよかったです

 

その後は高田駅に向かいながら寄り道【出陣プレイ】してダラダラ歩いてました、畑道とか滅多に歩くことないので365℃見渡しながら歩きました

 

で、もう暗くなってきたので今夜は山岡家へ

普通にチェーン店です、米どころまで来て2日連続ラーメンって何を食べてんのだ😅と。。

初日に米切れでぶっかけそば食べてから今回、食に関してはリサーチ不足もありダメダメでした

もちろんラーメンは美味しかったですよ

 

その後の春日山城はというと1598年、上杉氏の米沢転封により堀氏が城主となりますが、1607年に堀氏は直江津に福島城を築城して移り春日山城は廃城となります。この時代は戦国終焉を迎えていたので全国を見ても政務に不便な山城は廃城となっていきます

その後は堀氏の改易により家康の六男、松平忠輝が入封し、中心を高田に移したことは高田城登城の回で触れた通りです

 

領土拡大せずに謙信が生涯70回も合戦できた背景には

直江津という良港があり交易が盛んだった

・染料の原料となるカラムシを日本全国に流通

佐渡の金山

などがありました、港を抑えてるから武田に塩も送れますね

直江津佐渡島は百名城の城はないものの、今回行ききれなかったので、また上越行きます!

新潟城巡り、暑すぎて驚きましたが勉強になりました!

 

春日山城

・スタンプ設置場所

春日山城跡ものがたり館(12~2月は上越市埋蔵文化財センター)

・交通アクセス

えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン春日山駅」より徒歩40分