六文銭で城巡り

やるなら今しかねぇ、やるなら今しかねぇ

番外編🏯佐和山城(2024.4/22観光名所③・滋賀県)

「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」

戦国時代にうたわれた俗謡です。

三成とは石田三成ですね、島の左近は島清興という鬼神のような剛将で三成の参謀

佐和山城は5層天守の山城でこの二つは「石田三成にはもったいない」とまで賛辞された武将と城という意味です。

 

 

佐和山城は残念ながら日本名城100にも

続日本名城100にも選ばれていません。

ゆえに番外編

同じ最寄り駅の彦根城は国宝なのに敗者には辛い対比。まぁ遺構もほぼなく城趾だけですしね。

でも実は井伊直政が亡くなったのはこの城なのですけどね。

しかし、彦根城行ったら訪れようと思ってました、今日は天候も回復してくれたので二城とも登城します。

 

まず朝食を喰らう!

 

 

 

 

彦根駅着いてまず周辺を散策、石田三成ゆかりのアイテム発見

大一大万大吉のマンホール!テンション上がります。コンフォートホテル彦根の通りにあります。

この大一大万大吉は三成の旗印にもなっていて、

「一人が万人のために、万人が一人のために尽くせば、天下の人々は幸せになれる」と言う意味。

One for All All for Oneの精神だ!

漫画『ROOKIES』でも安仁屋がALLのAを間違えてOにして座右の銘にしてた言葉だぜ!

 

そして悲しくも佐和山城彦根城彦根駅からの出口も同じなんですよね。

出口出て右に向かう(佐和山城方面行く)人の少なさよ。関ヶ原合戦後、一時的に井伊家が継承して彦根城出来たから引っ越して廃城になったのが佐和山城なのでいないですね。

 

まず、佐和山城から登城します

 

 

麓に佐和山城天守の模型がありました

こんな立派な城だったのですね、過ぎたるものと言われるわけだ

 

石田三成公像(入口入ってすぐ左にいました)

1577年、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に小姓として仕えて以降、立身出世して台頭、信長亡き後は関白となった秀吉の側近として欠かせない地位を固めドラマや漫画でよく言われる従五位下・石田治部(じぶ)少輔となります

この時期に島左近を招聘、三成は自身の領地の半分を島左近に与える度量をみせます

豊臣政権の中核を担い、五奉行の筆頭として太閤検地朝鮮出兵などまさに参謀として活躍します

秀吉死後、機は熟したと言わんばかりに実権を握らんとする徳川家康に対抗して全国のほとんどの大名を巻き込んだ日本史上最大の合戦『関ヶ原の戦い』を起こしました

 

石田三成は個人的には大河『真田丸』の山本耕史ですね、政務めちゃくちゃ有能なのに対人は不器用な人っていますよね事務的というか。。

戦下手はまぁ置いといて。

本社勤務の人事部とかによくいるわ

映画『関ヶ原』の岡田准一は大河『どうする家康』の信長でも大河『軍師官兵衛』でも見事な演技力だったので選べないかな〜。

岡田准一本木雅弘は元ジャニーズと思えない完全に役者って感じ

大河『天地人』の小栗旬はイメージより熱く仲間思い、大河『軍師官兵衛』の田中圭はイメージより黒すぎました、ヒール過ぎる

七之助の『どうする家康』は松潤と一緒に星見てたくらいしか記憶なし

秀吉が弱体化→死去の流れでの家康の謀略に翻弄される三成に関しては山本耕史がよく表れてたと思います。(全てあくまで個人的主観です)

幸村も秀吉より三成の不器用さ(でも豊臣への思い)を感じ取り西軍についた感じしたしね。

 

では登城開始

序盤で中年夫婦が下山してきて挨拶

それなりに登城してる方いるのかな

 

野猿注意。野猿ならまだいい。てか野猿ならとんねるずのほうがいい。ハイキングコースでもあるらしいので軽快に登っていく

 

ただこの山、前日の雨により非常に滑りやすくなっている。その分、ヤブ蚊やハチはいない

 

途中から道なき道を足元注意しながら進む

なんなんだこのコースは。。整備もされてなければ案内板もない

そろそろスニーカー限界かなぁ、トレッキングシューズ買うかぁ、滑り落ちそうだもん。

 

40分強、登って天守跡到着。全集中を足の裏に注いで登りましたよ〜

佐和山城は戦国時代、六角氏が支配してましたがやがて衰退して浅井氏の支城となります

1571年、織田信長の侵攻によって当時の城主・磯野員昌は降伏、信長の腹心の丹羽長秀が城主となります

本能寺の変以降の豊臣政権下では堀秀政堀尾吉晴など有能な人材が入城、諸説あるものの1591年には石田三成が城代に任命され、蔵入地と呼ばれる直轄領であった佐和山の代官として着任

三成が正式に佐和山城主となったのは北近江四郡を拝領した1595年のことと考えられ、この時期に天守を備える近世城郭としての佐和山城が完成したとされています

関ヶ原合戦が1600年なので三成の佐和山城主は5年だったのです

三成は関ヶ原合戦徳川家康に敗北、城主不在の佐和山城は皮肉にも裏切った小早川秀秋によって落城し三成は六条河原で処刑されます。

徳川の支配となった後は関ヶ原の論功行賞として井伊直政に与えますが佐和山城にほど近い彦根城を築城。この際佐和山城の構造物は徹底的に破壊され、資材も彦根城築城のために転用されています

三成が秀吉に取り入られた『おもてなし三献の茶』の話や誰も飲めなかったハンセン病大谷吉継の飲んだ茶を一気に飲み干すエピソードに佐和山の統治は善政として領民から慕われていたなど石田三成という人物は根が真面目で一本気な性格だったと思う

関ヶ原敗戦後、三日三晩食べず寝ずで逃げ込んだ寺で住職から「何がご所望でしょう?」と聞かれた際、「家康の首がほしい」と答えたとか

秀吉が信長や家康のように子宝に恵まれていたら加藤清正福島正則とも仲違いすることなく豊臣幕府という時代で辣腕を振るっていたに違いない

 

大一大万大吉の理想はあと一歩届かなかったのである

 

汗かいたから気持ち良いですね

景色も良き、彦根の街と彦根城が一望できます

 

でも下山のほうが2回足をとられて滑りそうになったので、この状態なら別日に変更した人いるだろうなー。スニーカー厳し。。

良い汗かいたのでこのまま彦根城までウォーキングしよう

 

佐和山城

・交通アクセス

彦根駅下車 徒歩20分